最近、気づいたこと。そしてあんまり現実に会う人とは話したくないことを書きたい。
神社にあまり行きたくない、近づきたくないと思っている自分に気づいた。
実を言うと、家のすぐ目の前が神社だ。徒歩1分もいらないくらい近くに神社がある。ついでに、徒歩2分のところに寺があり、墓地もある。
このような施設があることには特に異議はなく、普通に僕も過ごしている。
2017年の僕は実は京都市内の下鴨神社の近くに住んでいた。通常は自転車で通勤していたのだが、雨の日は歩くとそのほうが近いので下鴨神社の敷地内を歩いて通勤していた。
その時は特に何も思っていなかった。夏は少し涼しくて歩きやすい、という程度のものだった。
いまの家の神社も、実は近道として使える。スーパーに行くのがそのほうが早いのだが、雨が降ろうがなんだろうがひとりのときは僕は遠回りしている。
なぜだろう、あまり敷地内に入りたくないのだ。
妻にもよく指摘されるのだが、僕はとにかく日本の信仰に関して関心が薄い。
これは、食や土地への執着が低い(ない)とか、仏教に関する理解度が著しく低いとか、色々な自分への観察で一応認知している事象ではある。
これはかなり雑なコメントだが、僕は自分がプログラマなのは生き方や価値観がかなりアメリカナイズド(未定義語)されているからな気がする。つまり、"アメリカ"*1 的な文化に過剰?に適合した結果、僕は日本の言語化されていない信仰を忌避し始めているのではないかと思う。
もちろん、原因はわからない放言なのだが、さらに放言を重ねていこう。
なんとなくだが、僕は大学時代以降一貫して数学、プログラミング、スタートアップとヨーロッパ・アメリカ初の概念を深くインストールしてきた。このことが、「日本離れ」に拍車をかけていると推測している。
まず数学。数学などというのは、日本っぽさとはかなり離れている。物事は命題と論理により構成され、ある主張をしたらそれが真か偽かは必ずどちらかに定まり、グラデーションがない*2。
プログラミングもそうだ。どちらかというと(?)、プラグマティズムの世界である。
脱線するが、プログラマがソフトウェアを開発したり、使ったりするのがうまいのは特殊な技能というより文化への適合なのではないかと思っている。例えば、カリフォルニアの会社が作っているツールやサービス(Google Workspace、Slack etc...)を使うのが上手い人や慣れている人は、必ずしもシアトルの会社が作っているツールやサービス(Microsoft 365、AWS etc...)を使うのがうまいとは限らない。
最後にスタートアップ。僕は日本的な経営の企業で働いたことがなく、数ヶ月前までやっていた転職活動でいくつかそういう会社を受けてみてカルチャーの違いに死ぬほどびっくりしたのが記憶に新しい。
とまぁ、この3つの大きなアイデアのインストールは日本的なるものとかなりかけ離れたものだった。いうなれば、僕は日本にいながらして、日本の当たり前にかなり疎い存在になっていると思う。
その過程なのかもともとの気質なのか、僕は信仰心まで日本から離れようとしているのではないか——という観察を僕はしている。いや、思いっきり間違っているかもしれないけど、自分に対する観察なので仮に間違っていたとしても誰かにとやかく言われる筋合いはない。
数年前に信仰について考えていた時期がある。
この時の僕が思っていた信仰は、自分は自分のためには生きられない。だから道徳的に正しいと信じられる信仰を持ちたいし、その萌芽があると思っていた。
そして、僕はちょっと前に結婚をした。結婚は、自分が自分以外のための生きる理由を作るためだった。僕は不自由になりたかったのだ。
自分が自分以外のために生きるという目的を果たした今、自分が信仰についてどう向き合うべきなのか。よくわかっていない。
できれば僕はいただきますもごちそうさまでしたも言いたくない(言うけど)。
だけど、かといって教会に行こうとはなっていない*3。
この気持ちをどうすればいいのかよくわからない。ひとまず、あまり他人に相談できることでもないことは確かだ。