Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

数学は宇宙の共通言語なのか?

数学がどこに在るのか、という問いをよく考えていた時期がある。自分でも忘れかけていたが、大学時代に考えていたことのひとつだ。

よく宇宙人*1でも数学は理解できるはずだ、とか言われる。僕はこの主張には同意できなかった。なぜなら、僕がやっている数学と、同級生、先輩、先生方らがやっている数学が同じものだとは思えなかったからだ。人間同士でも同じじゃないと思うのに、地球の外にいる生命でも同じように扱えると信じられるはずがない。

数学の本を読んでいると、その人の性格とか思想とか生き様とかを感じることがある。その人の全てが投影されているように感じるのだ。

定義、定理、例が羅列されているようで有機的につながっていて、ひとつ飛ばしたり、順番を変えると全ての整合性が壊れる。そんな繊細な本が数学書である。数学的な内容だけでなく、接続詞ひとつの誤りも許されない緻密な作品だ。

考え込まれた本だからこそ、その人の人間性が現れるのだと思う。1 行 1 行に、その人がしてきた数学の経験が感じられる。この 1 行は僕が逆立ちしても書けないと落胆し、尊敬の念を覚える。そんな経験が何度もある。

仮に僕が数学の本を書いたとしても、僕は素人なので数学の内容で人と差別化を図ることはきっとできない。きっと大部分は既存の数学書のコピーになるだろう。

しかし同時にこうも思う。きっと僕という人間にしか書けない文が1行くらいはあるはずだと。なぜなら僕という人間、僕の人生を歩んできた人間はただひとりしかおらず、僕がゼロから書けば、そこに書かれている数学的な事実は同じ内容でもその解釈は僕にしかできないからだ。

さて、最初の問いに戻ろう。僕の知っている数学と、僕にはとてもじゃないが書けないレベルで繊細な数学の本を書いている数学者の方が知っている数学は、果たして「同じ」なのか?

数学的な事実の人類としての共通理解・共通見解はあるだろう。しかし、「同じ数学」をやっているのか?

もしその同じ数学とやらがあるなら、それは人類だけのものなのか。それとも、数学は人間以外の生命でも理解可能なのか。


最近、『みんな違ってみんないいのか』というタイトルの本を読んだ。

amzn.to

この本は「正しさは人それぞれ」という昨今の風潮に警鐘を鳴らす本だ。この主題にはここでは触れない。

この本の後半に、「人間が現在のような物理学を作らなければ素粒子は存在しなかったのではないか」という問いに対して「その通り、存在しなかった」という主張をする一幕がある。この過程で数学の話が少しだけ出てくる。

「数学の世界が人間とかかわりなしに実在する」という立場よりも、「人間がやりたいことを実現するための道具として定理や公式を発明していく」というイメージの方が、数学の実態に合っているのではないかと思います。発明される前に自動車が存在しないのと同じように、発明される前に二次方程式の解の公式も存在しないのです。

まさに我が意を得たりである。

長さとか面積という概念がある。人類は長さや面積を計算するために数学を発展させてきた一面がある。例えば積分はまさに面積を計算するための極めて重要な手段のひとつだ。

なぜ面積を計算することが大事なのか。ひとつには土地に価値があるからだろう。土地は食料を生産するのに必須であり、その事実は21 世紀の今も変わっていない。今も昔も土地には価値があり、狭い土地よりは広い土地の方が価値がある。土地の広さを正確に測ること、土地を効率よく利用することは人類の営みに直結したはずだ。

ところで、この記事を読んでいる方は目が見える方が多いと思う。では、もし目が見えなければ長さや面積に相当する概念を体得できるのだろうか。もし目が見えない生命が数学を作ったとき、果たして長さという概念は重要なものとして扱われるだろうか?

あるいは、もし土地など面積の測量と生命の維持が直結しない生命がいたとして、その生命にとって測量の手段を発展させるモチベーションはあるだろうか?


数学の本における、定理とか系とか命題とかの使い分けは筆者により異なる。重要なものだけを定理とする本もあれば、定理が頻発する本もある。

人類レベルでは、重要だとされる事実はあまり乖離がないので「なんでこの事実をことさらに取り上げるのか」という議論は(少なくとも学部生が学ぶ数学くらいまでは)あまり存在しないだろう。人類にとって大事なことだから学ぶ機会があるのだ。

しかし、生きる環境や生命(というより感覚器官の前提や生命維持のために必要なもの)が異なればこの乖離は非常に大きくなるのではないかと思う。そもそも長さという概念を体得していないのに実数という概念を理解するのは難しいだろう。

また、そうした生命体は十進数と自然数・実数を基本としている人類とは全く違う数の体系をデフォルトとしていても全く不思議ではない。例えば、自然数という概念さえ体得せずに数学を発展させていても、全く不思議なことではない、人類だってゼロを発明するずっと前に三平方の定理を発明している。0 と√2 だと√2 のほうが人類の発明は早いのだ。


人間は、数学のルールに基づき共通理解を作る努力をしてきたから今の人間の数学があると思う。その営み自体は誇るべきものだ*2

しかしあくまで人間同士だから成立するものであって、他の生命、他の惑星らとも共通理解が得られる営みだとは全く思えない。人類のモチベーションは、人間が思っているよりも地球という住環境や目鼻耳口などの感覚器官にコントロールされていると思う。

そして、同じ人間であっても、やはり僕らそれぞれの頭の中の数学は全く同じものにはなり得ないと思う。実際、何か新しい理論が発見・発明・提唱されたときに理解を示す人もいれば、拒絶する人や無関心な人もいる。同じ知識量で同じような分野を学習していても、何に重きを置くかはきっとひとそれぞれのはずだ。

その中で、みんなが重要だと思う最大公約数的な内容が数学として広まっているから、人間の共通言語のように扱えているだけなのだ。


まさか自分の考えをそのものずばり書いている本に会うことがあるなんて思わなかった。

別にかつて自分が考えたことある内容だったので新たな学びは特になかったのだが、不思議な読書体験だった。

*1:地球外生命体という意味である。念の為。

*2:僕も数学史を専門に勉強したわけではないので確かなことは言えないが、実は数学の歴史と比べるとこうした営みの歴史は結構短いらしい。今のように、数学者が定理に証明をつけるのが当たり前になったのは数百年とかその程度の歴史しかないのだと聞いたことがある。