Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

人のアウトプットを読めない

特に今年から感じていることなのだが、人のテキストでのアウトプットをほとんど読めなくなっている。

といっても読めないのは技術記事とかnote記事のようなものばかりだ。同じテキストでも本になっていると読める。それからYouTubeやPodcastも見聞きできる。

昔からインターネットにあるテキストには本より面白いコンテンツなど滅多になかったし、いまも状況は変わっていない。それでも今年これを殊更に言うのは、NotebookLMがあるからだ。

僕はもう最近は長い記事があるとNotenookLMにつっこんでとりあえず概要を日本語で聞いている。英語だろうが日本語だろうがすぐに作れる。そんなに数を作らないので無料プランで事足りている。

だから、ほぼ読まなくなった。例外的に読んでいるのは、朝日新聞の記者フォロー機能とYu Kosekiさんのたよりない話くらい。英語でニュースレターはちょこちょこ読んでいるが、これもめんどうだとNotebookLMにポイっとしている。


AI媒介させるということは、その記事から人格を捨象することだと思っている。書いた人間の人格を抜き、情報だけを取得しようとするとNotebookLMの出力みたいになる。

つまり、細かいディティールをAIを介すことで失い、その代わり労力を減らしている。

この細かいディティールを失うことがどれほどなにを毀損しているかは定量化できない。が、なにかを毀損していることは間違いなさそうだという感覚がある。

それはPodcastの文字起こしを読んだときとかによく思う。仮に文字列としては合っていても、そこからはなにかが失われている。

だから僕はこの頃、ソースがWeb記事の場合は何かが欠落している状態でのインプットしかしていない。なんでかわからないけど、特に日本語のほうが自分で読む気にならない。まだ英語記事のほうがディティールを知りたいなと思うことが稀にある。

ついでに、このところWeb記事でいい意味で期待を裏切られたことがない。僕が読んでいないだけだと言われればまぁそうだろう。

そうなんだろうけど、要するに日本語で無償なり広告ビジネスなりでWeb記事を書くことに社会のリソースはもう集まっていないのだと思う。だから、良い記事とされるものが無償でも、なんなら有償でも現れるような状況にないのだと思う。The Letterとかが頑張ってるけど、頑張るの大変だろうなって感じ。

15年くらい前にはもうそう思っていたけど、日本語の情報はそれだけで焦点が狭まっている。とにかく視点の数が足りない。それでも、雨後の筍のようにコンテンツは、質はともかく量としては溢れかえっていた。今となっては昔の話だ。

今もきっと溢れている。だけど、もう溢れているという感覚さえない。社会のリソースはいまはYouTubeとかInstagramとかに集まっているんだろう、きっと。知らんけど。


僕も書いているけど、人の記事は読んでいない。

そして、いま他人がなにに興味を持っていて、どんなことをみんなが書いているんだろうかみたいなことに本当に1ミリも興味がない。マジでどうでもいい。

わからないことはAIが教えてくれる。なんなら読みたい記事をAIが作ってくれる。記事じゃなくても映画も音楽もバラエティも全部YouTubeやNetflixにある。そんな時代に、どこの馬の骨とも知らないやつのテキストを読みたいとは僕は思わない。そして僕もそう思われているのだろう。

書く営みが無駄だとは思わない。でも書くのは自分のためで、他人のためじゃない。そんな想いを新たにする。2025年、冬。