昔つけたブログタイトルでも、いくつか気に入っていて覚えているものがある。そう例えば、「止まったままの腕時計」とか「思い出に閉じ込められて」とか。
そのうちのひとつに、「愛し方も愛され方もわからない」がある。
記事の中身は本当につまらないので読まなくてよいがしかし、この記事のタイトルは僕の半生を象徴していると言って良い。ずっと僕は、愛し方も愛され方もわからぬまま、漫然と日々を過ごしている。
愛し方も愛され方もわかっていない、ということに気づいたのは、Mr.Childrenの幸せのカテゴリーという曲がきっかけだ。「愛し方ってもっと自由なもんだよ」と桜井和寿が歌っていた。
中学生のとき、僕はこの曲を聞いていた。そのときからずっと引っかかっていた。「じゃあ愛し方ってなんなんだろう」。
いつかその答えがわかるときが来るのだろうと漠然と思っていたけれど、いまもってなおその問いに答えは出ていない。
愛するとはなんなんだろう。
今年、COTENラジオでガンディーのシリーズを聞いた。
ガンディーの一生はひとつの愛の形ではあると思う。愛を説き、愛を貫き、インドの独立に近づけた。
ところで現代、起業家の矢本さんは言う。
自らの意志で対象へ向き合い、互いの尊厳を認め配慮し、自分がどう思われようと相手の「幸福と成長」に責任をもつ態度
が愛するということであると。
こうした、個々人がたどり着いた「答え」を見聞きしてもやはり思う。愛するとはなんだろう。
今もやっぱり、さっぱりわかっていない。愛し方も愛され方もわからないと思い始めてからもう15年くらい経つのに。
先日、すべてを愛したいと僕は言った。
人間は愚かだ。いつまでもどこまでも愚かだ。その愚かさも含めて、すべてを愛したい。自分の愚かさを、他人の愚かさを、仲間の愚かさを、権力の愚かさを。
その言葉に嘘はない。愛が地球を救うだのと言うと迷いごとのように聞こえるけれど、僕がこの世界を愛したいことに嘘はない。
この世界は素晴らしいのだから。
それと同時に、僕はこの世界どころか、誰かひとりの愛し方さえいまだにわからないでいる。
これを書いている今は 2022 年 12 月 28 日。そろそろ今年も終わる。今年もまた、愛し方も愛され方もわからないまま終わる。
いつかわかる日が来るのだろうか、いつか答えを出せる日が来るのだろうか。
わからない。わからないまま、僕は明日も生きていく。