引越し
だいたいこのブログは月の15日前後くらいに更新しようと思っている。今月はその15日が海の日で休みだ。
その15日に僕は引越しをする予定がある。
ということで引越しについてあれこれやらないといけないことをやっていた。
気がついたら引越しの期日目前である。今日のうちに本のパッキングだけでも済ませてしまおうと思っている。
引越しは6年ぶりくらいに行うが、以前よりはスムーズに行っている気がする。一方、以前よりもモノが増えているので面倒なのはこれからな気もしている。
何はともあれ新生活のために頑張らねばと思っているところである。
独裁者になっていく過程を見ているのか?
トランプ氏が米国大統領になって、自分の任期を伸ばすかもしれないという懸念が出ているらしい。
米国の最高裁が「味方」なこともあって (三権分立とはなんだったのか)、公務に関係する刑事責任は免責になったりもしている。
トランプ氏と直接は関係ないが政府当局の権限も弱めるような判決が下されてもいる。
ひとつひとつ制約を外して自分に権力を集中させて独裁者になっていく過程にあるように見える。
この挙動は古くは共和政ローマからローマ帝国への転換点で活躍したユリウス・カエサルと一緒だと思ったりもする。
こう解釈してみると、建国以来ずっと独裁を忌避していた米国で独裁者が現れるかもしれないという懸念はなかなか趣深いものがあるなと観察している。
いや、日本人的な「もののあはれ」を感じている場合ではないのだけど。
カエサルの時代になぞらえてみれば、カエサルの時代もカエサルに反抗する巨大勢力はいたわけだ。そういう意味で、争っていること自体に不思議はない。
カエサルは自身が暗殺されてすぐ死んだ。しかしその後の数百年、ビザンツ帝国を入れれば千年以上も続くローマ帝国の礎を築いた。
アメリカ合衆国がアメリカ帝国(そして皇帝はトランプか、その次の世代の人)になるとして、同じようなことができるだろうか。
僕にはそんな気はしていない。しかし、僕の目が節穴なだけかもしれない。
独裁について考えていること
ところで、僕の身近な人が中国が大嫌いなので*1、よくその人の偏見を聞く。
そしてその人は、僕の観察では自由民主主義を盲目的に信じている。ウェストファリア体制も国民国家も一点の曇りもなく信じている。
だから、民主制を採用していない国家のことを、西側以外の国のことを理解できないのだろう*2。
当然といえば当然である。その人はそれ以外の場所でまともに生きたことがない。僕もない。
しかし、例えば国土が広大で多民族国家なのに民主制をまともに駆動できているところは少ない(あるのかもしれないけど僕は知らない)。ロシアと中国はその筆頭だ。
それから独裁制の歴史が長い中東あたりはいまも独裁的だ。ペルシャ帝国の頃からである。
フランス人権宣言では「人は、自由かつ諸権利において平等なものとして生まれ、そして生存する。」と言っている。
しかし、現実にはヒエラルキー構造を作ること、不平等にすることによって得られる平和とか繁栄があったりもする。
江戸時代だって不平等だったけど200年以上も平和だったわけだ。
ていうかいまの日本も男女とかで十分不平等だ。しかし、元首相が選挙活動中暗殺されたこともあったけど、いまは引きずらずに選挙活動を怯えずにできる程度には平和だ。
中央権力が強いことや、人民が不平等であることが即その時代に生きる人の不幸なわけではない。
いまの中国も、いまのロシアも、いまのトランプサポーターもそう。
強い権力が秩序を保ってくれれば、それはもしかしたら誰かにとっての幸福かもしれない。
思想は不自由でも、従順な態度をとっていれば命が保証されるのであれば、人の一生としての幸福かもしれない*3。
そろそろ長くなってきたので、いつも言っているやつを書く。はやく近代が終わって欲しい。