Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

大事なことほど論理的に説明できない

大事なことは論理的に説明できないのでは、と思っている。

自分が「あ、これ大事だわ」と思った時に、なぜそれが大事だと思うのかを突き詰めて考えることがたまにある。仕事だとたいてい論理的に説明ができる。しかし人生とか、自分の行動とかを振り返ると毎回「直感」とか「信念」とかよくわからない、観念的なものに到達する。

この世は論理だけでできていない。論理の飛躍(それが創造性というもの)があって初めて進化や革新が変革が起きる。

僕はこの論理の飛躍がよく起きる。自分が大事だと思うことが、客観的に見てなぜ大事なのかさっぱりわからないことがよくある。自分でもわからないことなんてしょっちゅうだ。いま僕は第二次世界大戦を学びたいと思っていて、それを知ることが僕の人生にとってとても有益であると確信している。しかし、なぜそう思うのか全く論理的には説明ができない。

どんな目的が達成されるのか、わからない1。なにがどう有益なのか、さっぱりわからない。しかし知れば確実に有益であり、より豊かな人生に近づけるだろうと感じている。

理由をでっち上げようとすればいくらでもできる。中国の動向を深く理解したいという欲求があるとか、ロシア・ウクライナの侵攻を受けて世界史に興味が出てきたとか、自分の仕事中の失敗は戦争での日本軍の失敗に学ぶところが大いにありそうだであるとか。しかし、そんなことは後付けの理屈であり自分が「大事だ」と直感した以上の理由は実のところ存在しない。


最近よく論理で否定されるもののひとつにオフィス回帰があると思う。出社を強制することによる弊害として、満員電車による疲労、通勤時間というコストの増大、従業員のモチベーションの低下などがあるという2

満員電車に乗るのは間違いなく疲れるし、出勤と退勤に移動時間が発生することで間違いなくコストは発生している。たしかにもっともらしい。モチベーションは人による部分もあるだろうが、リモートワークができない体制を「マネージャーがメンバーを信用していない」というメッセージだと捉えればうなづける。

一方で、この論理的な否定に対して感情論で否定しても別に良いというか、仕方ないのではないかと僕は思っている。現代人の一部、感情や非言語能力を軽視しすぎだと思う。

僕自身、なんとなくたまに出社すると「オフィスの方が仕事が進むな〜」と感じる。なぜかは不明だ。不明だがしかし確実にオフィスにいる方が仕事は進むのだ。自チームのメンバーが他に出社していなくても。

人間は思いのほか原始的な生き物で、カメラを通した姿を見せ合ってコミュニケーションすることも、テキストを介したコミュニケーションにも大して慣れていない。リアルに近くに人がいるのと、Zoom を介してつながっているのとでは動物的な直感の働き具合が違う気がする。Slack 越し、Zoom 越しのコミュニケーションよりも相手の言っていることがすごくよくわかる。

僕は対人スキルは高くない、コミュニケーションにおいて論理偏重型だと思う。しかし、そんな僕でもすぐ目の前に人がいるのと、電話で対話するのと、カメラ越しに対話するのとではかなり印象が違う。明らかに対面のほうがストレスが少ない。

たしかに、僕も印象とか感じるとかあいまいでしかないし、論理的ではない。それを定量的な指標に沿って計測せよ言われてもどだい無理な話だ。しかし明らかに「オフィスのほうが働きやすい」のである。この僕の感覚は僕のなかでは完全に正しい。

しかし、論理的な理由で感情的、定性的な「リモートだと働きづらい」、「オフィスの方が働きやすい」という意見は本当に無視されてしかるべきものなのだろうか。


自分が何かを否定するのにも肯定するのにも論理は使える。特に第三者に対して意見する時に使える。

一方で、僕にとって本当に重要なものは「野生の勘」であり「直感」である。この動物的な何かが、論理では決して生まれない何かを創造しているし、だから論理的ではないが重要なのだ。

論理だけが大事なのではなく、非論理、非言語的な何かの重要性を日々感じている。

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  1. そもそも自分の人生に目的なぞないが、それを言い出すとキリがないのでここでとめおく。

  2. リモートワークとオフィスワークにはこれ以外にも採用など無限に論点があるのは重々承知しているが、これまた言い出すとキリがないので代表としてこの例を挙げた。