何も要らなかった
いつからか、自分が幸せにはなってはいけないんじゃないかと思うようになっていた。
自分が幸せになるのはやめておこう。他人の幸せを勝手に応援して、自分とは関係のない場所で勝手に幸せになって欲しいと思っていた。
Facebook でその人の人生のイベントを初めて知る、そんな知り合いがそこそこの数いればそれでいいと思っていた。それ以上の人間関係なんて要らないと思っていた。
わたしが特に人生で何をなそうともしていないのに生きているのは、培われた罪悪感がいつまでも拭えないからだ。
思い出に閉じ込められて - Diary over Finite Fields
たまにどうしようもなく救われたいという気持ちになるんだよな。謝罪も怨恨も何も産まないただの自己満足だってわかってるんだけど、このまま何もできない自分が、何もできないまま死んでいくのも、それなりには耐え難い苦痛なんだ。
救われたいなぁ - Diary over Finite Fields
もう何年も、生きる理由も意味も何にもないと思っていた。昨日と今日で同じ日々を過ごして、今年も 5 年後も同じことをやって生きていけばいいと思っていた。
友達との飲み会で酒を飲んでプロジェクトの上流に愚痴を言って、たまに仕事が変わってちょっとやる気になって、家でひとりやりたいときにやりたいことをすればいい。ブログを書くとか、コードを書くとか、やることなんて山ほどある。
それで幸せだと思っていた。これ以上何も要らないと感じていた。
いや、そうやって自分を誤魔化して生きてきた。人生そんなもんだって思い込もうとしていた。
何もかもが変わった
そんなときに、パンデミックが起きた。昨日と今日で全てが一変するということを大人になってから初めて経験した。
自分の日常が非日常になり、そしていつしか非日常が日常になる。そのプロセスを強制的に経験させられた。
パンデミックの前後で変わらず、やることは山ほどあった。だからきっと日常を継続することもある程度はできた。
けれども、その前後で取り組みに対する見方が変わり始めた。何もかもが突然変わり、僕の何年も動かせなかった価値観もまた一緒に動き始めた。「本当にこれでいいのか?」と自問することが増えた。
よくない。良いわけがない。冷静になればそんなのは当たり前だ。
少しずつ自分の気持ちが変わり始めて、少しずつ自分の行動が変わり始めた。
少しずつ許せるようになった
どうしても自分を許せなかった。
未来のことはわからないけど、過去は全部結果として、記憶に残っている。思い出せる。
いまの自分がかつての自分の過ちを繰り返さない自信がなかった。自分でも自分は変わったと思うけれど、今でもたまに自分でも驚くほど冷徹な自分が出てくることがある。そいつらに舵を取らせてしまえば、また同じことを繰り返すことになる。
だから自信がなかった。過去の経験はすでにあるのに、未来は誰にもわからないから。
だからずっと同じ日々を過ごしたいと思っていた。毎日、毎日。淡々と。それが一番、僕にとって平和な日々だったから。
でも大きく言えば、パンデミックを機に一念発起して、過去の自分を塗り替えることを始めた。それこそまさに『聲の形』の石田くんのようになれたらいいなと思い始めた。
その成果は今でもやっぱりよくわからない。未来は結局分からないから。
だけどそろそろ、少しずつ、自分で自分を心の底から許せるようになったんじゃないかと思う。