昨晩、『聲の形』が放映されていたそうで。
この映画、1度見ているのですが(1度しか見ていないのですが)、いやなんですよね。昔の自分を思い出して。
あんまりおおっぴらに書くことでもないと思うんですけど昔から人の気持ちがわからないんですよ。まぁ、このブログの読者(いるのか?)なら勘づくかもしれないですけど。
たとえばこういうの。
以前は体調悪そうな人を見ても特に振る舞いを変えなかったのだが、社会性を身につけたのでお大事にしてくださいとなんの感情も持たずに言えるようになった
— ハンター515ひかる (@515hikaru) October 31, 2017
わざわざ「何の感情も持たずに」とか書いている時点でお察しだと思うんですけど、「感情と振る舞いはどうやら多くの人にとって連動しているように見えるらしい」とか、「人に気を使ったりすることを自分の利*1と関係なく本心でできる人もいるらしい」とか。そういうことに気づいたのが大人になってからなんですよね。いつかはよく覚えていないけど、大学は卒業してた気がする。
自分の中では感情とふるまいは完全に別物だし、それを分けられるのが大人である、あるいはプロであると思っていた。だから職場で体調悪いなんて言っててもプロとして接するし相手にプロとして振る舞うよう求めるのは至極当然だと思っていた。ほら、プロ野球選手が「体調悪いからヒット打てない」とか言わないじゃない。風邪ひいたから試合出られないとかは当然あるだろうけども、それと結果は無関係だとみんな思ってるじゃん。
あと自分本位なんだけど、とにかく職場の人だとかそもそもよく知らん人たちに心配されたり気を使われたりすると純粋になんで?って思う。僕とあなたはただ同じ職場にいるだけの他人だよね?なんでそんなこと踏み込まれないといけない?
ということを、本気で思っていました。今はここまでは思っていません。未だに街で声をかけてくる人は全員敵だと思って生きてますけどね。
なんかきっかけがあったというより、徐々に価値観が変化していったのでこれがきっかけですみたいなのはないんですが。
例えば、本を読みました。例えば少し殺伐とした仕事を実際に経験しました、自分でいろいろと考えてみました。そういうところからかな。
例えば『マネジメントキャリア』には冒頭で、職場の人とプライベートな話をするなんて抵抗があるというあなたの気持ちはわかる、と書いた上でその価値観のもとでマネジメントしていたがゆえに失敗した著者のエピソードが出てくる。
『1兆ドルコーチ』には、ビジネスの仲間を人間として扱えということが全編に渡って書いてある。
詳しくは読んでね。
ちゃんとした論証をしたわけではないけれど、本を読みながら、あるいは自分の経験から演繹して個人プレーでビジネスがどうにかなる時代はとっくの間に終わっていたんだなと気づいた。
そして、残念な(?)なことに、ビジネスで出会う人を人間として扱う前に、どうやら僕はプライベートでも人間を人間として扱っていなかった(できていると思い込んでいた)ということが発覚して愕然としたわけ。
仕事について、ビジネスについて真面目に考えるまで、人の気持ちがわからないことさえわかっていなかった。それ自体はまぁ仕方がないと思う。
だけど思い直してみると、あのときのAさんとかあのときのBさんとかあのときのCさんとかをいっぱい傷つけてたのはそういうことだったのかと今更思うわけ。当時は自分の何が悪いのかなんて全然わからなかったんだけど。今思うとはっきり僕が悪いし、かといって今更気づいたってどうしようもないんだよな。
『聲の形』の石田くんは、僕みたいに取り返しがつかなくなる前に、万事幸福というわけでもないけど少しは取り返せていて、そこがたまらなく羨ましいんだよね。
今更謝りたいなんて言ったって、それこそ傲慢というものだし。どうしようもないんだよ。
どうしようもないんだけど、たまにどうしようもなく救われたいという気持ちになるんだよな。謝罪も怨恨も何も産まないただの自己満足だってわかってるんだけど、このまま何もできない自分が、何もできないまま死んでいくのも、それなりには耐え難い苦痛なんだ。
でも死んだら苦しくないし、やっぱり生きるしかないんだろうな。
*1:たとえば出世欲とか、誰かに気に入られたいとか、人によく見られたいとか