いつぞやにニーアオートマタというゲームをやりまして。
このゲーム、最後のエンディングまで見るとセーブデータを消すかどうかを選択することになる。なんでそんな選択をせねばならんのかというのは深入りしないけど、僕自身は削除して満足をした。
そしてまたいつぞやに Google Photo から iPhoto へと移行したことがあった。このとき(めっちゃ大変だったけど)Google Photo に放置されていたありとあらゆる不要な画像を削除した。
Gmail も HEY に移行した。HEY にはメールを自動的に削除する機能があって、ドメイン単位で保存期間を選ぶことができる。僕はたいてい 30 日でゴミ箱に入る(そしてゴミ箱で30日放置されれば消える)ようにしている。古いメールをいつまでもとっておくという習慣もなくなった*1。
そしてつい最近、Twitter のアカウントを削除した。20 ナントカ万ツイートをしたけれど、削除してから 30 日以上経ったので僕も含めてもう誰もツイートを参照することはできない。
なぜ消すのか
かつてはデジタルデータを消すことに意味はないんじゃないかと思っていた。ストレージをあまり意識することもないし、残しておくコストは非常に低い*2。むしろなぜ消すのか理解できないとさえ感じていた。
しかしニーアオートマタをやって、少し価値観が変わった。データは残し続けるべきではないのではないかと思うようになった。
例えばゲームのセーブデータでも、1 年間放置したセーブデータを思い出して起動して続きをやってもそこにはどこかアイデンティティがない。プレイしていたのは確かに過去の自分なんだけど、それは自分の体験の積み重ねというよりも赤の他人のものというふうに感じる。
写真もそうだ。かつて撮ったなにか、かつて保存した画像。そこには当時の自分の何かしらの想いや衝動があったはずだ。でもほとんどのものは今それを見てもなぜ撮ったのか、なぜ保存したのか思い出せない。いつかの自分にとっては意味のあるものだったのだろうが、いまの自分にとって価値のないものだ。
そんなわけで、最近はデジタルデータを断捨離するようになった*3。過去の自分の資産とか歴史とかいうと聞こえはいいが要するにゴミだ。ゴミは捨てればいい。そんな当たり前のことを実行するのに何年もかかった。
消すことによって得られるもの
Twitter 中毒である限り、自分が変わることなんて考えられなかった。今までの7, 8 年分の自分の記録がたったひとつのアカウントに全て残っていて、515hikaru はその延長線上にしか居られなかった。
SNS と距離をとって変わったこと、わかったこと - Diary over Finite Fields
そして何より、消すということで得られるものがあるように思う。
なんかの小説?で喪失と解放は紙一重だってフレーズがあったような気がするけれど、まさにそれで失うことで得られる何かがある。その何かがなんなのかよくわからないけど、消えたあとの身軽になった感覚、過去から解放され自分の考えが前向きになっていく感覚は他の体験では得難い。
僕が積極的に消しているのは決してストレージを節約したいからでも地球に優しいからでもなくて、自分にとって益があると信じているからだ。それは解放感のような、自由のような、得体のしれないものではあるけれど。
終わりに
いずれはこのブログも消えるかもしれないな、と思いながら運営している。
消したいと思ったことは今のところないからまだ残るんだろう。僕は相変わらず日々何かを考えているし、日々何かを感じて生きている。それをツイートよりも意味のある形で積み重ねられているから消さなくてもいいかなって思っている。
でも死ぬまでには消したいな。もしこのブログが完成する日があるとしたら、それは削除された日だと思う。