自分はこのまま何も成せないまま死ぬのだろうという気持ちがずっとある。
ことあるごとに参照しているけど、以下の記事はかつての僕の気持ちを如実に表している。
私にもし才能があるのなら、その証明として25歳で死なせてほしかったし、才能がないなら、なおさら25歳で死にたかった。「そうじゃない」人生を、それ以上生き延びなくてすむように。
いまはもうそう思っていない。死にたいとは思っていない以上に、自分が天才ではないということを認めたからだ。
諦めてから人生が始まる。僕はそう確信している。
そしてこの「余生」は思っていたよりはずっと素晴らしいものである。たとえ天才じゃなくても、たとえなにも成したことがなくても、どうせ何も成せることなどないと本気で受け入れていても、人は案外よく生きていける。
自分の心に正直になっても、よく生きていけるものなのだ。
ただ、いまでもたまに考える。いま死んだらどうなるかなと。
毎回思うが、不思議なほどになんの後悔もない。
別にやり残したことなどない。やりたいと思っていることでやっていないことはそこそこあると思う。でも、別に死んだらそれまでと思っているのでやり残したことなど別にない。
自分の後悔とかよりも残された人のことを考える。おそらく、一番悲しむのは母親だろう。友人にも何かしら影響はあるかもしれない。その人たちがよりよく生きれるような社会であればいいなと思う。
そう考えると、僕のこの「余生」の目標は強いていうなら、その社会になにか自分も影響を与えられればと思っている。あるいはこの社会になにかを残す人に自分が、どんな形であれ影響を及ぼせたらいいと思う。
いま僕は30歳である。来年は31歳になる。
いま死ねるならそれはそれで幸福だろうなと思う。でも別にその幸福を求めてはいない。
人生27で死ねるならロックンロールは僕を救った
27歳のときに、僕はこの曲を聞いてこう言っていた。
どうせ自分の人生は教科書には絶対に載らないだろう。でも教科書に載る代わりに27で死ぬくらいなら、生きたほうがいいと思っている。
おだやかな近況 - Diary over Finite Fields
言っていることはあまり変わってない。でも確信の度合いが僕の中では変わった。たとえ執着を失ったように見えても、よりよく生きることはできると信じてる。