自分には特にこだわりも才能もないと思っている。
それはたぶん、一面的には正しい。親から「会社員として生きなさい」と言われたことを忠実に守って会社員以外の働き方を選んだことがない。人生は保守的であると自分では思っている。海外旅行さえも結局いまだに行ったことないし、わりと治安の良いところでばかり身を置いている。こだわりの少ない人生を歩んでいると思う。
しかし、他者の視点で考えれば、自分の人生は保守的には見えないかもしれないと思う。多くの人は新卒で入った会社の社員番号が7番だった人の人生を保守的だとは見なさないかもしれない。まぁとはいえ自分にとっては特筆すべきことでさえないと思っている。自分で起業したわけでもなければ、会社に資金のアテがないわけでもなかった。博打ではなかったと今でも思う。
たしかにキャリアリスクはあったかもしれないけど、あまり気にしてなかった。自分の選んだことなら、たぶん正しいだろう、そんなふうに確信していた。
そう、この「自分の選んだことなのだから正しい」という感覚をメタ認知したのはわりと最近のことである。
冷静に考えるとおかしな話かもしれない。「正しい選択をできているか不安」、または「自分で選んだことなのだから自分で正解にするのだ」と言っている人なら僕は聞いたことがある。しかし、「自分で選んだんだから正しい」というのはそんなに他者の口や本から読んだことはない。いや、もちろん先人はいると思うけれど、もしかすると自然な発想ではないのかもしれない。
さらに言うと、自分で選んだくせに間違えたと思っていることは僕にもある。だから、別に自分で選んでも正しくないことだって起こる。
なのに意思決定のあと、僕は自分で選んだのだからたぶん正しいと多くの場合思っている。不思議なものだ。
僕の人生の行動指針は単純明快だ。「ダサいことはしない」。これだけである。
この中からいくつものことが演繹され、僕の人生のルールになっている。例えば過剰な倹約をしないとか、軽蔑している人や組織からお金を受け取らないとか、差別を許さないとか、そういうことがルールとして効力を発揮する。なぜなら、それらの逆はすべて僕にとってダサいことだからだ*1。
このダサいことをしない、という基準で最も大切にしていることはこの基準を徹底して守るということである。さすがに即座に命を落とすとかいう状況なら守れないこともあるかもしれない*2けれども、基本例外なく守るというのが僕の生き方だ。
例えば経済的不利益、誰かとの利害の衝突、自分にとって別の重要な信念とのコンフリクトなどが普通にありえる。しかしたとえば、僕は「ダサいことはしない」という基準に従って退職をしたことがある(退職をしないことがダサいと僕の中で判断されたからだ)が、これは経済的不利益の可能性をはらむ。それでもやるのだ。
もちろん今までもエッジケースはいっぱいあったし、これからもあるだろう。しかし、なるべくこれらのルールを自分は守っていきたいと思っている。
なぜダサいことをしないという価値基準にこれほど重きを置いているのかはここまで書いてきた自分でもよくわからない。なぜなんだろう。
もし自分がなにかこだわっていることがあるのだとしたら、ダサいことをしないようにしていることしかないと思う。
ちなみに、このダサいことがなんなのかは僕が決めている。社会からの影響ももちろん受けているけれど、世間一般で言われるダサい服は別に着ても良い。それは僕が合意している「ダサいこと」ではないからだ。
しかし、だいたい僕が選んだ「ダサくないこと」をしている限り、世の中はよくなる気がしている。なんでそう思うのかはよくわからないけれど、僕はとっても僕のことを信用している。
昔の僕は間違えたこともあったし、欲望に負けてとんでもないことをやらかしたこともあった。あんまり笑い飛ばせるようなことでもないが、そうした失敗も経て、いまは大きな間違いを犯さないきっと保守的な人生を歩んでいくことになるんだろうと思う。
僕の人生は平凡なのだ。少なくとも僕はそう思っている。それで良いしそれが良い。