Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

読者を信じていない本が嫌い

昔から読者をバカにしている本が嫌いだ。言い方よ。

大学生の頃とかはとがっていたので、ですます調で書いてあるだけで「読者をバカにしている」と思っていたけど、さすがにそこまでではなくなった。とはいえ、今でもこの本は読者をバカにしていると思った瞬間に読む気がなくなる。

別に読者を気遣うのはよい。図や表を用いてよりわかりやすく伝えようとすることは重要な試みだと思う。

最近読んだ本だと、レイ・ダリオの『世界秩序の変化に対処するための原則 なぜ国家は興亡するのか』は「長すぎるので太字の部分だけ読めばだいたいわかるようにした(筆者の解釈であって書籍にそのように書いてあるわけではない)」とあった。これは気遣いだと思う。実際、太字の部分だけを読んでも相当長いし、切り取りでも演出でもない。

しかし、同じ太字や強調でも過剰だと切り取りや演出のように感じる。例えば Kindle のハイライトのようなものが本にあらかじめひいてあるような本がある。見開き1ページのなかに1行だけ引いてあるみたいな。その目立たせ方は筆者の強調というより読者を誘導しているのではないか?僕は読者を信じていないように感じる。

この差分は結構難しい。というか僕の受け取り方や機嫌でしかないのかもしれない。重要なところを太字にするのはこのブログでもごく普通にやっていることだ。

しかしどうにも、「読者にわかりやすく伝えようとすること」と「読者を信じずに誘導しようとすること」は違うように僕は感じる。

ショートとロングの二極化

ただ、別に僕はこの傾向がダメだとか思ってない。時代の流れだなと思う。

動画で演出があるように、本でも著者や編集のような制作側サイドの切り取りが商業としてあったほうがよかろう、ということなんだろう。本人たちがどのように解釈してそのような行動をしているのか知らないけれど。

僕にはこの流れは書籍のショートフォームコンテンツ化に見える。実際、TikTokの動画は数十秒〜数分くらいだし、YouTubeも10分でも長いとかいう時代。一回ググったことあるけど、noteの記事を書いている人は2,000字程度でまとめることを目指すらしい。

要は短くないとたくさんの人に見てもらう機会がないのである。可処分時間をゼロサムゲームで奪おうと、無数の人の1分を奪おうとする戦いだ。別にそれは間違った戦略ではない。

一方で完全に逆ぶりしているニッチなカルチャーとしてポッドキャストというものがある。1回のエピソードは30分程度のものから優に1時間を超えるものもある。テック系や英語圏だと1本3時間とかもあったりなかったり。

www.youtube.com

今の世の中はショートフォームコンテンツとロングフォームコンテンツの二極化が進んでいるのだと思う。

あ、別に僕が気づいたことでもないよとは言っておく。ちなみにこれもロングフォームコンテンツから聞いた。知っている人は知っている有名なアレ。

ロングフォームコンテンツとしての立ち位置を模索できないのか?

さて、では書籍はどちらに倒すのか?

僕の意見では当然ロングフォームコンテンツだと思う。

HIGH OUTPUT MANAGEMENT を最後まで読むと著者のアンドリュー・グローブが「たぶんこの本を読むには8時間くらいかかる」みたいなことを言っていた。しかし、たった1回8時間をかけるだけでもこの本の存在意義を強く実感できる人がほとんどだろう。

逆にいえば8時間かけなければわからないことがある。いや、おそらくこの本を読んでいる時点でかけた時間は8時間どころでは済まない。

実際、僕はこの本を読んでいる間、仕事の経験を本と照らし合わせたり、仕事から離れて読みふけったり、また仕事をしたり、を繰り返してやっと意味がわかるようになった部分がたくさんある。実際には8時間の、つまりは読んでいる間だけの付き合いではない。生活の中に本が溶け込む状態になってやっと理解が深まっていく。

まだまだわかっているとも言い難い僕だ。つまり読み終わったけど本をコンテンツとして得ている度はまだ終わっていないのだ。これ以上ないロングフォームなコンテンツである。

これは3時間ポッドキャストを聴いて同じ時間をともにした以上のコンテンツになりうるものだと確信している。

たしかに可処分時間の奪い合いというゲームはゼロサムゲームだ。しかし、可処分時間を積極的に自分たちに渡してくれるようなブランドを作るにはロングフォームコンテンツしかないように思うし、その手段として、昔からある原始的な手段として、書籍というものはとても有効だと思う。

一方で、もう時代が違うので書籍が世の中を変えることにはならないであろうことも示唆している(フランス革命前夜にはルソーの書籍が革命家に広まっていた)。多数の人に届けるにはたぶんもう書籍よりも良い手段がいろいろある。

だから最初の話に戻るけど、もっと読者を信じた方が良いのではないか。言い方を変えれば、ひとりの読者を信頼して関係を作れるような本作りをしたほうがいいのではないか。

そんなことを思ったりする。読んでいる時間だけが本の価値ではない。

ところで僕は本を作ったことがない素人である。