Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

欲求を持つ才能

このブログはなぜか 8 年くらい続いている。

なぜ続いているのか、書いている本人ももはやよくわからない。

誰にも頼まれていないし、ほぼ誰からも承認されたこともない。コメントがくることはないし、本当に人間が読んでいるのかも不明だ。

ちなみに感想が欲しくないわけではない。もし感想があればメール*1でお願いします*2

昔は技術記事とかを書いていたけど、今となっては誰が読者になりえるのかよくわからない文章がたまに投稿されるだけのブログになっている。が、なぜか継続的に投稿されている。


どうも書きたい、と思うらしい。

書きたいと思っているつもりはないのだが、結果としては書き上げているのでたぶん書きたいんだろう。一切の推敲も校正もしないので38点みたいなまま公開して、特に直さないので質には興味はないらしい。

何を書けるかとか何を書きたいかとかは考えていない。ただ考えているだけだ。考えたことが気が付いたら文書になっている。

別に書くという手段である必要もない。最近はたまに喋っている。しかし喋っているほうがテーマを恣意的に選んでいる感覚がある。これ書けば済むよな、ということを喋ったりはしていない。

考えたことを書くのはなぜなんだろう。自分の思考を外部化したいのだろうか。公開することで何かしらの役に立ちたいのだろうか(だとしたら目的は全く達成されていない)。誰かに自分の考えたことを伝えたいのだろうか。

何度も考えたけど、結局よくわからない。


こういうどうでもいい「考え事をしました」という文書はわりと苦もなくかける。この記事も書き始めてから1時間もかからずに書き上げられ、予約投稿にセットされる。

一方で、技術記事とか人に何かを伝えるための文書になると一気に書くハードルが自分の中で上がる。ものすごく知っているのに、ものすごく詳しいのに、別に自分が書かなくてもいいかというか、自分の欲求の外のものになっている気がする。

役に立つようなこと、知りたいと思うようなことを僕が書いても仕方がないな、という気持ちが多分ある。何より、僕がそういう気持ちで文書を読んでいない。


そして最近思った。書きたいと人に思わせることはとても難しい。

最近、絵を描く AI というのが現れて、創作活動とは何なのかを考えた。

いまの AI に、「こういう絵を描きたい」と自律的に思う機能がない。だから AI はまだ創作をできていないし、全くクリエイティビティを発揮できていないという内容をポッドキャストにした。

open.spotify.com

今のところ、誰かに自分の代わりに「この絵を作りたい」と思わせることが不可能なのだ。作りたい人が自分で作るために奔走するしかない。画力を磨くという手段もあれば、誰かに頼んで描いてもらうという手段もあるし、AI に描いてもらうという手もある。しかし、与えられているのは常に手段であって欲求ではない。

自分の欲求を、誰かにコピーすることはできない。どんなに頑張っても、よくて劣化コピーにしかならないだろう。


欲求を持つのはひとつの才能なのではないか。

僕にはこの誰の何の役にも立たない、ただ自分が書きたいことを書いて公開するという習性がある。その習性の根本には、自分が考えていることを書きたいという欲求がある。その欲求を持つという部分だけでこのブログは続いている。

そしてこの欲求の根源は不明だ。持って生まれたものか、後天的なものなのかわからない。しかしどうもこれは才能っぽい。

1円にもならなかろうが、読まれなかろうが、人に響かなかろうが、反対意見を貰おうがただただ淡々と書くなんて行為をしている人を他には知らない。もちろん居るとは思うけど、少なくとも自分の知り合いにはいない。


別に結論はない。才能があるのだからそれを何かしらの形で行使していけばいいかなととりあえず思っている。いい才能なのかはよくわからないけど、ただ淡々と行使していくのが正攻法。

どうせ大して何もできずに死んでいくのだし、自分の才能の結果くらいは残してもいいのではと思った。ということでこうしてまたひとつ記事が無為に追加された。

*1:メール以外でこのブログにコメントが来たことがないので、メール以外受け付けないことにした。現実問題としては Twitter の DM とかも見てしまうと思うので、その他の手段で連絡されても僕は見ると思いますが。

*2:次のリンク先の末尾に Contact があり、そこからメールアドレスの閲覧ができます。https://linktr.ee/tak428k