Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

誤解されるべきなのではないか

最近、発信をするときは誤解された方がいいのではということを考えている。

経験上、相手に自分の言っていることが伝わったと感じたことはない。このブログにある記事も「なんでそういうリアクションになるんだろう?」という感想をたまに見かける。いや、そういうものしかないと言ってもいい*1

そういうとき、発信者である僕は誤解されたかなと思うわけで、どうすれば誤解されないようにできるのかを考えていたこともあった。でも今は、誤解されることが重要なのではと思う。

逆の立場で考えてみる。つまり相手の言っていることが腑に落ちた、理解できたと感じたとき。僕の経験上 7 割くらいの確率で実は理解できていない。表層だけをみていたり、実は細かいところで勘違いをしていたり、勝手な解釈をしていることが多い。つまり、理解できたと感じているとき、人はだいたい誤解しているのだ。いましれっと主語を僕から人に一気に大きくしたけどまぁたぶん合ってるだろう。

言い換えると、腑に落ちた時や、理解したと感じている時というのは実は納得しているという状態に近い。それは理解したのではなく、自分にとって都合の良いように(自覚的・無自覚かは問わずに)解釈したのではないかと思う。この自分にとって都合の良い解釈が、時に誤解となる。

誤解という日本語はマイナスのイメージがあり誤解を減らすべきと思っている人も多いと思うが、筆者は別にそうは考えていない。文書は作者のものではなく読者のものであると僕は考えているため、少なくとも僕の書いた文書に関しては大いに誤解してもらって結構であると思っている。僕がとやかく口を出す筋合いはない。

というか、誤解は必要なものだとも思う。作者の思考の範囲なんてたかが知れているが、読者の数が増えれば増えるほど文書の可能性は大きくなる。そこには誤解が必要だ。誤解されなければ、文書は本来の力を発揮し得ない。

なにより、多くの文書は読者に納得してもらうためのものである。誤解により納得へと進むのであればそれがあるべき姿だ。


誤解とは違う話だが、文書にはひっかかりも必要だと感じる。ひっかからない文書というのはすぐに記憶からなくなっていく。

ひっかかりは疑問や質問などを通して脳にその文書の存在を留めたり、場合によっては読者から作者に質問をするといったアクションにつなげることだってありえる。ひっかかりのない、疑問のない文書のほうがよいように感じるが、実際にはひっかかりがなければ誰も理解できない文書にしかならないのではないかと思う。

てなわけで、誤解され、そしてひっかかる文書を書けるようになれれば広がりのある文書を書くことができるのでは。そういう仮説がある。

こんなことを書いたけど、別に僕がこれから書く文書にこの記事の内容はたぶん盛り込まれない。実証はきっと誰かがしているのでは。僕なんかが思いつくことはもう誰かが考えて実践しているでしょう。

*1:このブログの記事が誤解されがちなのは(筆者の分析を公表することに意味なんてないが、一応書くと)ブログという媒体の体裁をとりながら、1記事で主張が完結しないからだと思っている。というか全体を通してこのブログにはいかなる主張も存在しない。別に伝えたいことなんてないのは事実なのだが、伝えたいことがないやつがブログ記事という形で発信するなんて誰も思っていない。だから誤解されるのだと思っている。