Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

情報量の調整ができるコンテンツを消費しているのかもしれない

雑なタイトル。

最近、超相対性理論というポッドキャストを聞いている。散歩中、というかただ歩くことが目的化している時間にワイヤレスヘッドホンをつけてノイキャンして聞いてる。

直近で公開している「国語力ってなんだろう」という問いがまずとても面白くて、それに伴う議論全容が総合的に面白い。

open.spotify.com

うまく説明できないけど、まあそれはよい。


どの回だったのか失念してしまったのだけど、以下の議論のくだりがあった: 情報感度が高いと同じことをしていても刺激が強すぎて疲れやすい。逆に情報感度が低いと刺激を外部から与えないと何も生産することができない。

これはすごい面白い、というか発見だった。僕は前者である*1。動画を見るとか、旅行をするとか、初めての人に会うとか、全て僕にはとても重労働だ。

今は学習して、同時にやってくる「初めて」を2つ以上にしないように心がけている。初対面の人に会う約束をするときは、自分が行ったことある場所で会うようにする(もしくは事前に下見をしておく)。ひとりではいけないような場所には、よく知っている人と行く。

初めてじゃなくても、ただ知っている街を歩くだけで刺激は無尽蔵に増えていく。


そこで考えてみると、僕が動画を見ないのはこの辺りに起因しているのではないかと思った。

僕は YouTube を見ない。あ、テレビも見ないしアニメも見ないしアマプラも Netflix も...... とにかく、よっぽどのことがない限り1分以上の動画は見ない。TikTok も週に 2, 3 回起動するくらいだ。

なんで見ないのかといえば、情報が多すぎるからだ。動画は短い動画でも数百 MB とかの容量があるだけあって、やっぱり情報量が多い。

最近は刺激も強い。サムネイルもド派手だし、みんなテンション高くてめっちゃ笑ってる。字幕とか音楽とかもあって、情報にせよ笑いにせよ濃縮に濃縮を重ねているのが動画制作の方法論だと思う。

ドラマとか映画とかもこれまた見ない。(フィクションだったとしても)人の人生の一番浮き沈みが激しい部分を抽出して見させられるわけで、これまた濃縮還元度合いがすごい。2時間のうちに笑わせ、怒らせ、泣かせというのを追体験させられる。観客と製作者の共犯関係があるから成り立つけれども、もし同意なく映画なんて見させようものなら拷問であり人権侵害だと思う。

そこで振り返ってみると、僕はあえて情報を削ぎ落としたメディアばかりみているな、ということがわかる。

ブログなどのテキストの記事はよく読む。小説もたまには読むし、ビジネス書とかもダラダラ読んだりしている。

しかし、漫画はあまり読まない。漫画を読むのはとても疲れる。漫画を読むとキャラクターの顔を認識し、ワンピースみたいな漫画だと血を流して痛そうなキャラクターを見ながら、それでも闘いが終わるまで読み進めることになる。でもこれも、もし読者の合意がなく行われたら拷問か苦行か人権侵害かなんかくらいひどいことじゃないだろうか。ちなみに僕はそういうシーンを見ると現実に銃乱射事件が起きたときと似たような感情が沸き起こって疲れる。

あとはポッドキャストを聞く。それは音声だけという全く視覚情報のないメディアだ、それでだいぶ刺激は減るけれども、僕はその中でも情報量が少ない番組のほうが好きだ。短い時間で情報量を詰め込みましたみたいな番組はあんまり聞かない、数時間ある雑談番組とか、特に結論も出ないで終わる議論とかを聞いている。それだけで僕にとってはとても刺激的だからだ。

自分が発信するときもそうだ。僕はこの記事を書いているようにブログ記事をよく書く。しかし、このブログには滅多に動画も画像も登場しない。文字しかない。表さえ滅多に出てこない。それは僕が伝える努力を怠っているというのもあるけど、自分に合わせた情報量で発信しているからだと思う。


結局のところ僕はわかりづらいものを好んでいる気がする。

わかりやすいということは情報量が多いと言うことだ。しかし、わかりづらいということは情報量が少ないということではない。情報量を自分に合わせて調整できるのだ。

コンテンツがあったときに、得られる情報量を増やすことはできても減らすことはできない。わかりやすいコンテンツであれば、下限の情報量が僕にとっては既に too much でしんどい。しかし、わかりづらいコンテンツであれば、自分が得る情報を自分がコントロールできる。集中しなければうすっぺらい情報だけ取得できるし、逆に熱心にはまり込めばどこまでも自分の思索を深めることができる。

動画のように、一気に情報を目の前に提示するような形式だと自分の知りたいことも知りたくないことも全部均一な密度でやってくる。自分で調整する余地はほとんどなく、クリエイターが作ったものをそのまま受け取るしかない。しかし、先に挙げた僕の消費しているメディアであれば、自分が知りたいことは深く考え、感じることができるし、自分が知りたくないことは薄くして蓋をすることもできる。そこに濃淡をどうつけるかを自分で取捨選択ができる。

余談だけど、僕は 2 時間の雑談番組を 2 回とか 3 回とか聞くことがある。毎回何か別のことをしながら聞いていて、その時々でオンのタイミングとオフのタイミングがずれるはずだ。なのに毎回なぜか同じセリフ、同じ話題に反応して「同じ話を何度も聞いた」感じになる。2度聞いたから、1度目に把握しきれなかったことを把握しようという脳の動きにはならないようなのだ。結局僕も、見たいものだけ見ているのである。


別にオチはないんだけど、超相対性理論を聞くたびに自分自身に対するこんな感じの発見がある。

他にも、国語の話では自分に読解力がなかったけど数学を勉強することで読解力が身についた結果、他の国語力も伸びたなと思った。

あとは「考えることを考える」テーマでは、考えることは問いを立てるということで、問いを立てられば思考が走るという話があった。僕は高校時代に成績を伸ばすためには「自分がわからないこと、疑問に思うことが一番大事」ということを何の根拠もなく絶対的自信だけでそう思っていたんだけど、それはどうもこの 3 人の議論のひとつの収束地とも整合しそうだなと謎に誇らしい気持ちになった*2

というわけで、内省ができるポッドキャスト、超相対性理論。まだまだ聞いていないエピソードがいっぱいあるので、のんびり追っていきたい。

*1:自分で自分のことを情報感度が高いというのも傲慢な感じだけれども、謙遜なしで。

*2:今もそう思っている。問いに対して答えを探す行動は誰かに代替してもらえるのだけど、問いを立ててもらうことは代替できない。