暑くはなくなったが、寒くもない。
夜にあたたかい飲み物を飲むと、つかの間の安心を得ることができる。だから、ブレンディのノンカフェインのカフェオレを飲もうとしている。
名状しがたい何か、あるいは僕
僕は何者なんだろう。昔からそう思っていた。僕は何者かになりたかった。オタクでも陰キャラでも野球少年でもなんでもいいから、僕にレッテルを貼ってほしかった。
でもどんなレッテルも、結局しっくりこなかった。人間は結局だいたいおんなじような生き方を選んで、同じような死に方をするのだと思っている。自分もありふれた生き方がしたいと思っている。ずっとそう思っている。
なのにどこに行ってもなにをしても、僕は何者にもなれないと思い知らされるばかりだった。会社員にこそなったし、ITエンジニアにもなったけど、結局自分は何者なのか未だによくわからない。Webエンジニアでも機械学習エンジニアでもデータサイエンティストでもITコンサルタントでもない、何かであり続けている。仕事以外でも、アニメオタクにもなれず、映画オタクにもなれず、邦ロックオタクにもなれず、中途半端で宙ぶらりんだ。
自分にラベルが付けば、安心していられると思っていた。そしてそのステレオタイプ通りの生き方をすれば、楽に生きられるんだって、そうやって生きていきたいって、なんなら今でも思っている。東大生が官僚になるとか、いい大学出たんだから大企業に入って安定収入と福利厚生の加護を受けよとか、SIerで働くんだからExcelの扱い得意でしょとか。なんでもいい。レッテルを貼られて、安心したい。そのレッテル通りの生き方がしたい。
なのに、ひとつもできていない。
自分が自分であり続けなければならないということに疲れる。そもそもそんなことはスーパースターのすることで、僕みたいな一般人が考えることじゃない。でも僕は何をどうあがいても、最後には他に形容しようのない僕という存在に戻ってしまう。
自分が自分以外の意思の通りに動かせたら、もっとずっと楽に生きられるのに。
何者にもなれない
なぜレッテルを貼られたいのかというと、結局マジョリティになりたいのだと思う。自分は多数派であるという安心感がほしい。安心がほしいのではない、安心感がほしい。
自分はフツーの人間であるとか、自分が思うことは相手も思っているんだとか、そんな感覚がほしい。そもそも願って手に入るものではないということがわかるのに25年くらいかかったけど。
自分は何かになれると思っていた。そのレッテルを貼られた人間、それこそ仕事ができない人とかそんなんでもいい。とにかく何かレッテル通りに動けば、"普通"に近づけると思っていた。でも"普通"にちかづくどころか僕が目指していたものはそもそも存在しない、ということがやっと最近わかった。自分は自分でしかない、自分は何者にもなれない。あなたは、あなたにしかなれない1。
でも、「みんなといっしょがいい」ってナイーブに未だに思い続けてもいる。最近は積立ニーサの広告とかみるたびに思う。
等身大の僕
自分は自分であり続けなければならないことは変わらない。僕はスーパースターではないことを自覚しつつ、でもただのマジョリティでもない、レッテルが貼られた存在でもない、中途半端な存在で居続けなければならない。それがとても苦しいと思っている。
でも、そうやって生きるしかない。
当たり前だけど僕は僕でしかない、そして私以外私じゃない。スーパースターではないけれど、他に代わりが居るわけでもない。
これからも僕は心に響く映画を観たら感想を書くし、たまにはアニメもみるし、IT技術者としてなにかを発信もするし、生きながら考えたことを書き連ねるだろうし、ライブハウスに足を運ぶだろう。
それが結局、僕が僕であるということなのだから。僕は僕でしかいられないのだから。
- 作者:仲谷 鳰
- 発売日: 2018/09/27
- メディア: コミック
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『やがて君になる』 6巻より。↩