Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

すずめの戸締りをみた

もうあまり、映画を語りたいと思わないでいる。いや、語り始めてしまうと語れてしまうのだけど、それが良い行いだと最近は思えないでいる。

だから、雑に書く。そう、雑に書いたのに、本当に雑に書いた日記とかに比べるとそれなりに分量が多い。困ったものである。なおこの話は、これから展開される文章には関係ない。

すずめの戸締りを見てきた。

この記事は映画を観ないと何を言っているのかよくわからないと思うのと、これから映画を観るつもりがある人は多分読まないほうがいい文章だと思う。

suzume-tojimari-movie.jp

見終わって最初に思ったことは、東日本の人間による東日本の人間のためのレクイエムだなと思った。

どこか醒めた目で見ている自分が最後までいなくなることはなかったし、なんだか最後までハマらなかった。


東日本大震災が関わるらしい、くらいのことはどこかで見たのでそれくらいは知っていた。

正直言って、僕は東日本大震災と縁遠い。当日何をしていたか、どんな一日だったか、あの日の出来事が僕をどう変えたか。ストーリーは作れると思う。

でも僕にとって本当にインパクトのある日は、例えば「そっか、ここでは君が代を歌わないのか」と思った大学の入学式。満月が綺麗だった京都の夜。怒りとも哀しみともつかない感情を携えて自室で過ごしたパンデミックのあの日。そうしたものだ。そこに東日本大震災の日は、正直なところない。

だからきっと、僕がこの映画をどこか醒めた目で見ているのは、それはこの映画がいいとか悪いとかそういう話じゃなくて僕の問題もあると思う。というか僕は常にそう主張している。ある映画が面白くないとき、それは映画じゃなくて見ている「お前」が面白くないのだと。

舞台は九州、宮崎に始まりひょんなことから愛媛、神戸、東京へと北上していく。最後にすずめのふるさと、東北にたどり着く。西日本の人も、東日本へと連れて行き、すずめの想いにそっと耳を傾ける。

だけどテーマが震災なのに、神戸という地名まで出しているのに、なぜ阪神淡路大震災は出てこないのだろう。日本全国に関係するメッセージですよと言っておきながら、やっぱり東日本の人間の世界観だなと感じる。

ドライブミュージックがなぜか懐メロなのも、安易なZ世代へのステレオタイプって気がして正直見てられない。


この映画のタイトルにもなっている、根本的な概念であるところの「戸締り」がどうにもひっかかる。

地震や土砂崩れなど自然災害でその地に残った想いがある。その表出を、想いを聞きながら扉を物理的に閉めて、鍵を閉める。それが戸締りだ。

しかし、本来は逆なのではないかと思う。

そこに想いがある。その想いが場所ではなく、人それぞれの心の中に閉じている。それが普通の状態だ。その扉を開けることが大事なんじゃないかと思う。

すずめは最後まで自分の想いを話さない。たしかに、彼女は自分で自分を救う。でも本当にそれが素晴らしいのか?もし素晴らしいとするのなら、それは自分で自分の辛い経験を乗り越えられる人だけが偉い、という強者の理屈の押し付けなんじゃないか?

最近、阪神淡路大震災で母親を亡くした方の記事を読んだ。

digital.asahi.com

「あのとき、あの人がそばにいてくれた。あの人が話をきいてくれた。人生には、そんなアルバムが必要なんです」

この方は自分だけでは立ち直れなかった。それが普通だと思う。

周りに話を聞いてくれる人がいて、やっと少しずつ立ち直っていく。

「生きていてよかった。私にも幸せになる権利があるし、そうなりたい」

自分も幸せになっていいんだと、長い年月をかけてやっと思えるようになっていく。28 年という長い、長い時間をかけて。

こんな現実を見ていると——そして自分が辛い経験というものを乗り越えるのにかかった時間を考えても——すずめがフィクションの存在だとわかっていても、どこか不自然なくらい強い主人公のように思える。


おじいさんの迫力がよかったなとか、芹沢ってやついいやつだなとか、細かいところでいいなと思う。

アイテムとか役者とか、いろんなことがいろいろといいなと感じる一方で、根本的なコンセプトがとてもひっかかる。

あんまり好きじゃない。

12年。当時子どもだった人が高校生、大学生になっているくらいの時間は確かに経った。なんだろう。いろいろと感じ入るところは確かにあるし、ダメな映画だったとは思わないんだ。だけど、とてもじゃないけど僕はこの物語を好きになれない。

強い人は強いですね、という話に見える。人間はそんなに強くないと思う。


この映画を観て、思い出したことがある。僕は東日本大震災の当事者ではないなりに、あの時期にこの日本に起きた理不尽をどう整理すればいいのか考えた。まだ若い頃、高校2年生の頃だ。

僕の結論はこうだった。「この世でどんな理不尽が起ころうと、僕の身に降りかかっていないのであれば、僕は全力で生きよう」

そう決めた記憶がある。

熊本で地震が起きた時も、岡山が洪水で沈んだ時も。イスラム国に日本人が殺された時も、ウクライナで戦争が始まった時も。挙げ句の果てにはパンデミックで家に閉じ込められても。いついかなる理不尽が襲おうとも、僕は全力で生きることにした。

結局、僕にできることはそれしかないのだから。

いまも僕は全力で生きている。幸いなことに、僕は目の前でたくさんの人が死ぬような経験はしたことがない。幸いなことに、僕は隣人が隣人に手をかける現場に出くわしたことがない。

その幸いを生かそうと思った。当事者ではないからこそできることが、人の嘆き悲しみ、苦しみ怒り憎しみに触れていないからこそ切り拓ける人生があるはずだと信じることにした。

そんな忘れていた気持ちを思い出させてくれたんだから、きっといい映画だったんだと思う。僕は好きじゃないけど、この映画はいい映画だと思う。

執筆:@12kojima.takahiroShodoで執筆されました