Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

今週、思ったこと

今週は死ぬほど忙しい。

全て自分のせいなのだが、月曜から土曜日まで毎日予定がある。これを書いている今はまだ木曜日だ。

もちろん仕事もした。面接もした。名刺の交換もした。人の話をめちゃくちゃ聞いた。酒も飲んだ。

そんな日々である。


行きの道と全く同じ帰り道を歩くと、行きの道で座り込んでいたホームレスが3時間経っても同じ場所にいた。

3 時間。僕はその 3 時間で人に会い、人と話し、なんなら購買もした。

その 3 時間、彼は表情も一切変えずに同じ柱に持たれてただ左右を見回していた。何かを見ているのかもしれないし、何も見ていないのかもしれない。

その途方もない時間を想像して、あるいはその途方もない時間を過ごし続けることを想像した。

やっていた事業を畳まざるを得なくなったのか、病気にでもなったのか、不景気でリストラされたのだろうか。そのどれかかもしれないし、そのどれでもないかもしれない。

僕は目を伏せた。

自分がそうはならない保証なんてどこにもないと思うと、見てられないのだ。


一部の人に僕は賢いと言われる。そうなのかもしれない。

一部の人に僕は人が気付かないことに気付くと言われる。そうなのかもしれない。

でもだからと言って、賢くなりたくて賢くなったわけじゃないし、気付きたくて気付いてるわけでもない。知らない方が幸せなことだってある、気付かない方が幸せなことだってある。

こんなことなら一生気づかなきゃ良かったと思うことで溢れてる。

人の意識は社会に埋め込まれている。この社会が、我々の思考を規定する。

あまりにも自然に我々は食事を貨幣と交換するし、貨幣には価値があると思い込んでいる。家族とは所与のものと考えてるし、為政者は聖人君子でなければならないと思っている。

人間が作ったはずの社会に、人間が規定される。人間はそれを繰り返して生きている。

その構造を認知する、「気付く」。あぁ俺が生きづらいのはこの社会のせいかと、あぁ私がいま闘っているのはこの権力なのかと。

気付く。

それは時に残酷だ。

何も気付かず、何も考えず生きた方が幸せだったのではないかと思う。


幸福を目的にすること、それ自体が不自由なのかもしれない。

ここでの幸福はもちろん、配偶者を持つことや子どもを授かることを意味しない。ていうか、ナチュラルに自分が幸福でありたいと願うことに他者を巻き込むな。それは傲慢な態度であり、もし子どもに向けばそれは子どもに対する人権侵害とさえなりかねない。

それはさておき、別に1人で不幸に生きてもいいのでは、と今日思えた。

僕という人間が、何も為さず何も遺さずただ不幸に生きて、作られる世界があるのではないだろうか。

その世界は素晴らしいか愚かしいか分からない。いやおそらくは価値判断なんてできないのだろう。

でも、それが結果なのだからそれでいいのではないかと思う。

この文章を読んでも誰も納得しないだろう。でも僕は納得した。それでいい気がする。