Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

もう既になにもかも持っているから勝ち負けに興味がないのではと言われた

とある人に表題のような主旨のことを言われた。

聞いた瞬間に面白すぎて笑ってしまった。僕には全くなかった視点なので素晴らしい指摘だと思った。

文脈を少し書くと、僕は勝ち負けとか競争とかに興味がないし、そういうものにやる気を出したのは一回(大学受験)しかない、という話をした。なんでそんな話になったのかは覚えていない。

で、上記の僕の競争(なんでもいいが、試験勉強とか出世コースを歩むとか年収を上げるとか……)に対するスタンスを言ったら、表題のリアクションが返ってきたわけである。

何が面白かったのかというと、これに反論するのは非常に難しいからだ。確かに僕は(僕が欲しいと思う程度のものは)全て手に入れてしまったかもしれない。

もう何も要らないと思いながら日々過ごしている。

では、そのような自覚がありながら、なぜそのような視点を持っていなかったのか。つまり、自分はもう既に何もかも持っているのかもしれないという考えに思い至らなかったのか。

それには答えることができる。僕は確実に、何も持っていない家に生まれたからだ。だからこそ得ようと思って大学受験だけは頑張ったのである。

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そして、そこには何もなかった。結局、そもそも僕という人間には何も要らないのだ。最初から。

欲しいと思ったものが、全てあとから考えると勘違いだった、要らないものだったんだと気づく。

そして心の底から要らないと思っているものばかり手に入る。そんな人生である。

一応、自分なりの解釈を付け加えておくと、僕は競争をしないからこそ色々なものが得られているのだと思う。

競争というより、対立といった方がいいかもしれない。

対立をすれば、最後には勝者と敗者が発生してしまう。だからそもそも対立構造に自分が入らないようにするのだ。

よく言えば処世術だし、悪く言えば無気力と怠惰である。面倒くさいからそうしている。


あまり関係ないが、ずっと自分の中で疑問だった「自分がやりたくないと思っていたことを結構な確率でやり始める」問題を考えてみた。

僕は数年前まで、たとえば採用面接に関わるとかしたくなかった。英語を使って仕事をするとかも考えたこともなかった。今はどちらもやっているし、しかも肯定的に受け入れている。

さらにでかい話で言うと、僕はそもそもリーマンショックが起きた時に「お前らが作った世界秩序をぶっ壊してやる(※中学生の時分なので大目にみてほしい)」と思ったのに、そのリーマンショックを起こした資本の理論に絡め取られて今を生きている。

なんでこうなるんだろうなと結構真面目に考えてみたのだが、まだしっくりくる答えは出ていない。

ただどうも、権力構造と関係がある気がする。僕は結局「そうは言っても社会を変革するには権力が必要じゃね?」と思っている立場だ。たとえアナキズム的な社会を志向するんだとしても、少なくとも今は国家という権力があって、その国家が議会制民主主義で動いている以上は、そのルールのもとでアナキズム的な社会を作るコンセンサスを得るべきなのではと思っている。国を解散させるための法を制定して、その法のもとで解散するべきだと思う。

それが人の一生を丸々使っても実現するのは難しいことは承知の上で、でもそうしないといけないよねと思っている。

で、たとえば「採用面接に関わりたくない」とか「英語を使いたくない」だとか「リーマンショックを起こしたやつら全員ぶっ殺してやる(※中学生の時分なので大目にみてほしい)」みたいなのは全部、結局権力への反感でしかないということに気づいた。

そういえば、僕は昔から権力が大嫌いである。学校の教師も嫌いだったし、軍隊の行進かのような中学・高校時代の体育祭の行進とかが全体主義国家みたいでやだなって思っていた。まぁ、愛知県は全体主義国家なのかもしれないが。

しかし権力が嫌いでありながら、上述のように権力をたとえば他の力、暴力だとか革命だとかによって変えようとは僕は思っていない。

だから、自分も権力側に流れ着いて、長いものに巻かれてしまっているのかなと思っている。やりたくないことをやらざるを得ないというより、現体制の権力を忌避しているんだろう。