Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

経験を重視するべきかもなぁ

学歴中心の履歴書から経験中心の履歴書へ、という画像だけをやたらと目にする。

賛同する気もないけど、そんなに批判する気もない。そう思う人もいるだろうなと思うし、その人にとっては本当にそれが名案のように感じるんだろう。それは理解できる。

そして、例えば自分の子供が素でそういうことを言う人になったら、僕は父として「教育の賜物だな」と感じるだろう。もし子どもができることがあったら、その状態を目指したいものだ。


僕は海外に行ったことがない。日本の領土、領海、領空の外に行ったことがない。

理由は簡単だ。行く気にならないのだ。適当なコストを払えばもちろん飛行機に乗って行くことはできることは知っているし、不可能ではないと知っている。英語ができないとかお金がないとかそんな理由ではない。英語はできないけど日本語が通じるリゾート地なんていくらでもあるし、お金も海外旅行に行けるくらいにはある。

ではなぜ行く気にならないのかというと、自分が貧乏人だからである。貧乏人かどうかはいまお金があるかどうかでは決まらない。生まれ育った環境が自分の貧乏さを決めるのだ。

たとえいま僕が一億円を手にしたとして、僕はうまく使えないだろう。貯蓄するとか、せいぜいちょっと投資に回すとかが関の山だ。もしくは悪い奴に騙し取られるか、浴びるように酒を飲んで溶かすか。その程度のことしかそもそも頭に思い浮かばないのである。

そう、いま挙げた選択肢の中に「経験を買う」というのがそもそもないのだ。貧困という環境は人の発想を強く、強く制限する。


今更僕が重ねていう必要もないが、経験は時間とお金を払えば買える。留学にはお金がかかるが、お金の障壁さえなければ留学には行ける。お金の障壁さえなければ経験できることなんて山ほどある。

時間もそうだ。この世には母子・父子家庭などで子供の頃からそもそも時間がない人だっている。

僕という貧乏人は本を買ったりポッドキャストを聞いたりして、現地にいる人の追体験をして満足する。そのお金を自分が払おうという発想がそもそもない。消費をして満足する。

お金があるのが当たり前じゃないから、お金がある前提でより価値のあるものを「買う」ことができないのだ。預金残高がいくらかどうかなんて関係ない。1 万円札を持ったとき、どう消費しようかと発想するのか、それともその 1 万円をいかにして(将来の利益のために)投資しようと考えるのか。

この分岐には越えられない壁がある。わかっていても、じゃあこのお金を自分に/社会に/未来に投資しようという発想がそもそもできない。これはきっと一生治らない病気だろう。

しょうもない貧乏人の僕は前者であり、僕がすごい人だなと思うような人は後者の発想をする。それを見せつけられるたびに、自分は貧乏人だなと自覚するのである。


僕は昔からお金を使うのが下手だ。

いま大変ありがたいことに自分の身に余るほどの給料を会社からいただいている(具体的に言うと、欲しいなと思うものはだいたい全部買っているけどそれでもお金が余って仕方がない。しかし余ったお金をどうすることもしていない。)。 けれども、全くよく使えている気はしない。せいぜい、社団法人や自分の母校の大学にたまに寄付しているくらいだ。それもあまりにもひどいお金の使い方をしているから、罪滅ぼしのためにやっている感じがある。

僕なんかに金を持たせてもいいことには使わないので、もうこれ以上お金は要らないと思う。ビルゲイツに世界を最適化する方法を考えてもらった方がよっぽどマシだ。


経験重視の履歴書、昔だったらそのフレーズを聞いただけでブチギレていたかもしれない。

でも今は、別にそれでいいのかもしれないと思う。以前書いたように、僕は社会への怒りだけで必死こいて勉強した過去がある。

note.com

でもじゃあ、いま自分がどれほどの存在になったかというと、結局根が貧乏人なのだ。

別にそんな頑張る必要もなかったのでは、地元で適当に生きてワイワイやってたほうがずっとずっとずーーーーっと幸せだったんじゃないか。貧乏人にはそのほうがお似合いだったのでは。

喉元すぎればなんとやら、今となってはそう思わずには居られないのである。