Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

深夜の戯言

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このニュースを僕がほじくり返す理由も必要性も何もないのだけど、考えていたら書きたくなった。なので書く。

わたしは常々感じることがある。女性はなぜ、男性社会の価値観で優位に立とうとするのか、と。

わかっている。最近はそこまででもないことは知っている。ただかつて、女性は男性の隷属であったかつて*1は、女性が男性社会に参画することが重要なことだった。そうしなければ、男性社会自体が変わらないからである。今もその傾向は続いている。具体的には政治の場面でよく見られる光景ではある。

一方で、今や女性だからという理由だけで不当な扱いをするのは問題とされるようになった。上記のニュースがそれにあたる。女性の自由や権利に関する発言をしたからこそ、彼の発言は問題視されたわけだ。そして問題視されたということは、社会に女性が(男性の隷属としてでなく)存在するということが広く認知されているという証に他ならない。

それが良いこととか悪いこととか僕はあまり考えていない。事実そうなっている。だから僕は空気を読んであまり男女に対する発言をしないようにしている。この記事めっちゃ書いているけど。

雑に書くと、かつては強い女であっても、誰もが弱い男に付き従わなければならない社会だった。一方で今は違う。強い女は男性社会で強い男性と同じものさしのもとで争うことができる。普通の女性、弱い女性はそれぞれの生き方をしている(特に職業とかを何かしら想定して書いているわけではない)。ただ同様に、普通の男性、弱い男性という存在も不可視だが存在している。別に今までも(そして今も)不可視なだけだ。男性社会のもとで割りを食ってきたのは女性だけではなく男性もだ*2。ただ、女性は可視化されている一方で、男性はまだ可視化されていない。それだけである。

自分がどこに属しているとかとても考えたくない(おぞましいことである)が、一方で、そもそも自分はある程度そうした "優劣" から解放されていると思う。だってよくわかんないし。僕は僕でしかないし。良くも悪くも僕にはあんまり男友達がいないし*3

例えば収入が多いほうが偉いとか、働いている方が偉いとか、そういうのは強い男性が作った価値観だ。僕はそうした価値観のもとで生きようと最初から思っていない。働いているかいないかなんてどうだっていいことだ。働ける人だっているし働けない人だっている。友達の職場なんていちいち覚えてない。死にたくないとは思っているけど。

さて最初の話に戻ると、僕にはいまの社会になっても既存の価値観のもとで多くの女性が戦うという図式がどうにも釈然としない、というかもう成立していないんじゃないかと思う。女性開放運動は決して女性を男性にしたいのではなくて、女性が女性のまま(つまりは男性の隷属ではなく)でいるためのもののはずだ。男性には隷属しないが、誰かの作った規範に隷属することが自分(たち)を解放たらしめると本気で信じているのだろうか。

そして僕は、ある程度強者の世界で市民権を得た後に、強者の規範から解放される流れがひとつ存在していることを、とても喜ばしいと思っている。というのも、この流れが適用できるのは決して男女だけの問題ではないと思うのだ。世の中には様々な弱者が居て、その様々な弱者が群れて不可視のままキズをなめあって生きている。単に性的マイノリティというだけでない。完全に脱線だけど、ファイト・クラブって映画を見たことがあるなら、睾丸ガンを患った患者グループのシーンを見たことがあるだろう。きっとあんな感じのことが時代を超えて行われているんだと思う。今だと Zoom とか使って。ファイト・クラブを見たことがないなら見てほしい。

己の正義をふりかざすことは別に構わないと思う。僕も自分が心の底から信じているものは決して譲らないし。だから僕にとっては変だと思えるようなことであっても、本気でやっている人を止めたりだとか、嘲笑ったりだとか、そういうことをするつもりはない。だけど、僕は誰かと戦うんじゃなくて、自分を解放するほうが、ミクロには幸福が増えるのではないかと思っている。もちろん、そんな簡単なことじゃないし、誰にでもできることではないんだけどね。

これは深夜テンションで書いた戯言。ずるいけど、どうせただの個人ブログだし、ね。

*1:そんな遠い過去のことでもない。例えば戦前には女性には選挙権がなかったのだ。選挙権は一応戦後に得たが、その後数十年に渡り賃金さえ平等ではなかった。

*2:もちろん、参加する権利があって敗れるのと、参加する権利さえないのは質が違う話であることは言い添えておく。

*3:女友達のほうがもっといない。ていうか0だ。