Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

労働は諸悪の根源だが働きすぎてしまう

自分は労働者であり、労働は嫌いである。しかし災害時にもかかわらずわたしは出勤をし、通常時間より少し長い勤務*1をし、退勤をした*2。通勤、退勤時に特に交通機関の乱れなどもなかったので結果として「少し風の強い雨の降った日」に勤務していただけだが、一方でそんな日でも普通に勤務できてしまう。労働にはそれだけの魔力がある。

なぜ労働は嫌いであると認識し、さして対価が増えるわけでもない残業をしてしまうのか。このことについて考えを巡らせていた。

結論として、労働をしないことより労働をすることのほうが簡単だ、ということである。別にわたしはエネルギーの高い方から低い方へと転がっているだけだということだ。

就職先、帰属している組織があるというだけでこの世界の障害の70%くらいは取り払われる。賃金が毎月振り込まれる環境にあると90%くらいの障害はなくなる。割合は雑だが本気で言っている。わたしはとてもわたしという存在だけで家を借りられる気がしないし、携帯電話を契約できる気もしない。

働くことにより得られる社会的評価は、甘美だと言ってもいい。何も生産していなくても、たとえ毎日職場のデスクでYahoo!のトップニュースを眺める窓際族をやっていたとしても、クビになることなく毎月所定の賃金をもらっているだけであなたは社会的に評価をされる。家を借りようとして門前払いされることはない。あなたは仕事をしているかどうかよりクビになるかどうかを気にして生きていればその甘美な社会的評価を得続けることができる。この状況下でむざむざ「働かない」という意志を貫けるだろうか。働かないことは働くことよりもずっと難しいのだ。

一方でわたしは収入を得るために全力を尽くして楽をするということはしておらず、業務を遂行している。そうするのは別にわたしが生真面目だからでもなんでもなくて、やはりそのほうが楽だからである。やらないで向けられる白い目とやって向けられる白い目では質が全く違う。要するに、わたしは総務のお姉さんに「あいつは書類の提出が遅い」と陰口を叩かれるくらいなら、書類を早く出したほうが楽だと思うという話だ。しかしこれも評価の一端と言えよう。給与の増減には関わらない評価であっても、わたしは無駄に反抗し居づらくなる(そして働くことにより得られる社会的評価を得にくくなる)くらいなら高い評価を得たほうが無難だ。そうすると、働きすぎたりする事案が発生するわけだ。

労働は悪でありこの世から根絶するべきものだと思っている。しかしわたしは労働を続けるだろう。労働をしたほうが楽な社会である限り。

*1:といっても30分も残業していないが。

*2:自分への直接の被害はなかった。ただこれは運が良かっただけにすぎない。