最近は本を読んでいる。一時期は Web 記事を読むことにハマっていたが、このところは書籍を読んでいる。
書籍にもいろいろあって、Web 記事を 30 個くらい読むのと内容が対して変わらない本も存在する*1。もちろん良質なというか、これは書籍という体裁でなければ読めないし知ることはないだろうというようなこともある。
久々に本を読んでいると、ふと本をどう読んでいたっけなと思う。
昔から本を読むときにメモをとったりノートをとったりするクセがない。書き込みもしないし、Kindle にハイライトって機能があるのだけど活用していない。
どんな本を読むときも、読んだら読みっぱなしだ。一時期はブログに感想くらいはサクッと書いていたが、もうそのアウトプットもしなくなった。
なんとなく読んだら読みっぱなしにしないほうがいいような気がしていたのだけど、別に根拠はない。読みっぱなしでいいのかもしれない。どんだけ頑張っても書いてあることを全部覚えることなんてできないし。
なんだかんだ本を読むと、本を読まなかった時よりは自分のインデックスが増えている感じがする。
例えば、僕は大学一年生のときに『大学とは何か』という本を読んだのを覚えている。何が書いてあったのかはほとんど覚えていないのだけど、おぼろげに思い出せることがあるし、違う機会にヨーロッパの歴史の本を読んだりすると曖昧だった記憶が息を吹き返して繋がることがある。
別に覚えてもないしまとめてもないのに、自分の中の何かとして堆積されて、なにかのきっかけで堆積されたガラクタの山からふっと湧いて出てくる。
本を読むのはガラクタを増やすためにやっているのかもしれない。読んだタイミングではその知識がいつどう活用されるのかなんてわからない。というか99%以上は活用されることなどないのだけど、そのガラクタがあるから自分は何かを知った時にものを考え、吸収し、比較し、自分で考えて生きているのではという気がしている。
ところで、たまたま僕は本を読むことで「堆積」を作ったが、本を読む以外の方法で同じことは実現できないのだろうか。できるのではないかという気がしている。TikTok の動画も何万本も、何千時間も見続けていたら、そこで得たガラクタもきっと自分の中に意味を持ち始めるのではないだろうか。
映画監督が例外なく映画をたくさん見ているのと別に構造としては変わらない。
僕とは違う形でそれが発露されるのだと思うし、想像するととてもクリエイティブなことだ。
僕は動画を見るのが苦手だ。漫画を読むのも苦手だ。だから、具体的にどういう形に活かされるのか想像できてない。だけど、ショートムービーの世界で自分には想像も及ばないクリエイティブな営みが生まれるのであれば、それは素晴らしいことだなと思ったりする。
*1:別に批判しているわけではない。30 個 Web 記事を書くのは大変だ。