最近考えていることシリーズ。しかしこのタイトル、我ながらひとにクリックしてもらう気がなさすぎる。
生産性を追い求めない方がよいかもしれない?
開発生産性に関するカンファレンスに行ってきた。
https://findy.connpass.com/event/283417/findy.connpass.com
詳しくレポートとか書いてないけど、書いてない理由はなんかちょっと会社と直結しすぎていて考えていることを抽象化するのが面倒だからという結構自分本位な理由。ひとこと感想だけを書くと本当に楽しくて、久々になんか考えることが尽きなくて夜寝れなくて、会社のNotionに自分がこれからやることを定義し始めちゃった。そういう感じのカンファレンスでした。
はい。
で、この講演を聞いてきた。
なんかこれを見ながら考えるほど実は「生産性を高める」ことに実はあんまり誰も興味ないのではという気がする。
上の資料で言うと、重要なのはリードタイム(いつリリースできる?)を気にしているわけで、誰も実はスループットを気にしていない。スループットを気にする必要が全くないとは言わないけど、それは開発チームの中とか、チームや部門の外の人が、ましてや経営者が気にしなければならないことではないのではと思っている。
もちろん、何事にも例外はあると思っていて、例えばSESとかだと人員が余っているのはそれだけで売上の減少を意味するのでめちゃくちゃ意味があると思う。しかしまぁ、それはSES事業の生産性であってソフトウェア開発の生産性でもない気もする。
この資料とかが出てくる以前から、なんなら僕が開発生産性なんて言葉を聞くようになる前から、なんか本能的に個人の生産性を高めることにあんまり意味ないなと感じ始めていた。
ソフトウェア開発って、業務でやったり事業でやったりしている限りは基本的にひとりではできないことなので、自分だけがいくら効率よく仕事をこなしても別に意味はないというのをどこか体の芯で理解していると思う。
なにより、市場に出して初めて価値が確定されるという側面がどうしてもある。全然論理的に説明できないのだけど、この、市場に出して初めて価値が確定されることと、生産性の向上が相反するということを経験的に理解している。
なんか、噛み合わないのだ。個々人のスループットが大きくても、なぜか不思議と機能を本番にリリースできたのかという観点だとむしろリリースが遅くなったりするのだ。不思議なもんで。
言語化もできていなかったしあまり課題意識もなかったんだけど、なんだろうなこの現象ということをぼんやりと考えている。そして組織がリードタイムを重視した状態ってなんだろう、ということを考えている。
ローマ人の物語を読みおえた
ローマ人の物語を全部読み終えた。単行本15冊。長かった。
15冊を4月にメルカリで一括で購入しているので、だいたい読み終えるのに4ヶ月くらいかかったらしい。まぁそれくらいかかるか。あと同時並行で英語の勉強もしていたので、余計読み終えるのに時間がかかったとも思う。
最後まで読み終えた感想としては、結局なにをどうすればよかったのか全然わからないなということだった。
特に13巻「最後の努力」は本当に文字通りの最後の努力で、ディオクレティアヌスが帝国を4分割して統治しなければよりはやく崩壊していただろう。しかし、その文字通りの最後の努力により絶対君主制に変わってしまい、コンスタンティヌス大帝が現れキリスト教を躍進させた。ローマ的なものはことごとく失われていったのが如実にわかり悲しみさえ覚える。
しかし、ローマ的なものが失われ始めたのは、元を正すとどうも五賢帝アントニヌス・ピウスやマルクス・アウレリウスの時代の時点ですでにそうなっていたような気もする。だから、本当にただただどうしようもなかったのではという気がする。
このどうしようもなさを胸に、また寝て起きたら仕事に励もう。いや、さすがに夢がなさすぎるか。
どうせ滅ぶという諦念があっても、僕がソフトウェア開発が好きだということに変わりはないので今日もソフトウェア開発をやっていくと思う。