Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

ルッキズムと権力

読んでいる途中なのだけど、『権力に翻弄されないための 48 の法則』を読んでいる。

とても面白い。いくつも紹介したいエピソードがあるのだが、そのうち特に印象に残ったもののひとつに「見た目」の話がある。著者は見た目と権力とは強い関わりがあると指摘する。

なぜ見た目が権力と関係するのかといえば、名声がそれすなわち権力になるからだ。そして名声を得るためには見た目が肝心である。

街に溢れかえっている広告には、別に合理的な妥当性なんて全くないのに美男子と美女しかいない。そのほうが目を引くし、広告としての目的を果たせるからだ。見た目という道具を利用して名声を得ようとしているのが広告だ。

別に外見の美しさだけの話でもない。ウクライナのゼレンスキー大統領は半袖のシャツを着て腕を見せていることが多いが、どう考えてもあれは演出である。世界へのアピールのために自分の外見を利用して "マーケティング" に使っている。戦争においてマーケティングは非常に重要である。資金や物資の調達、軍の士気に直結しひいては勝敗を左右するからだ。

別に批判しているわけじゃない。人間社会とは所詮そういうものである。


起業家とか社長とかいう存在がある。端的に言って権力者である。僕は昔から「社長は声が通るべき」であるという持論を展開している*1。声がいい人が社長になったほうがいい。経営は権限委譲できても、声は委譲できないからだ。

同じことを喋っていても、声が通るかどうかであらゆることが変わる。相手が話を聞くかどうか、相手が行動を起こすかどうか。それは発信者の声に強く左右される。説得力を持たせるために良い声を持つことは必要だし、その才能があるに越したことはない。

同じことが見た目にも言える。一方で、見た目は声よりはサポート可能な領域ではある。服装やメイク、美容整形などなど手段もオプションもそこそこある。そこまでやるかは置いといて。

僕自身は少し前まで見た目に気を遣っていなかった。自分自身のだけではなく、他の人の見た目もである。

それはそれとして、僕は権力に敏感である*2。見た目が権力に関連していると気づいた瞬間*3、僕は見た目を気にし始めた。手のひら返しである。僕の人生は手のひら返しの連続で成り立っている。


これはルッキズムの話だ。あんまり乱雑に話さないほうが良いテーマだということは知っている。自分の見た目に悩んで、摂食障害等々の病気になってしまう人がいることを知っている。なんなら死を選ぶ人さえいることを僕は知っている。

一方で知識として知っていても実感はない。見た目は力を得るための手段、もっと言えば自分が自分の望みを叶えるための道具だとしか思っていないし、自分の見た目が良くないことは自分の望みを叶えるための武器がひとつ少ないこと以上の意味を持たない。他の武器を用意しなければならない面倒くささはあるが、声を変えたいとも見た目をガラッと変えたいとも思わない*4

同時に、僕がそんなふうに言えるのは僕が見た目でそんなに損をしたことがない*5からじゃないかという気もする。日本にいて男性として生きていて、見た目という価値だけで自由市場で闘ったことがないから言える戯言なのかもしれない。ホストとかになったら(ならないけど)死ぬほど悩むんだろうか。僕はいまポジショントークをしている自覚がある。


なんかとっちらかったけど。

そうはいっても人間は見た目に振り回される生き物だし、このルッキズムとかいうルールって昔からあるものだ。残念なことだと思う。こんなルールよくないとも思う。しかし、こんなルールよくないよね、と言ってなくなるようなものではじゃない。と思ったという話。

くだらないと思うけど、仮に全人類がくだらないと思ったって残るルールだろう。ひとまずそういうルールがある、ということだけ自覚して生きていきたいものである。

*1:僕が社長には絶対ならないと決めているのは自分の声が通らないからである。

*2:自称。

*3:冒頭に挙げた本を読んだから気づいたわけではない。それよりも少し前のことだ。

*4:最近髪型を変えて、真面目に見えそうな感じの髪型にしてみた。そういう感じ。

*5:少なくとも得をした経験はない。全く思いつかない。一方で明白に損をした経験も思いつかない。