20 歳のときに連合赤軍の映画を見た*1。
当時は意味がわからなかった。なぜ彼らは夢や理想を語りながら、総括という言葉のもと自分の仲間を拷問し、果ては虐殺したのか。
意味がわからないなりに当時は解釈をした気がするが、よく分かってなかったんだと思う。こういうのは時間が経つと意味がわかってくることがある。
働き始めてから、人は条件が揃えば簡単に人を "殺す" ということがわかった。ここで "殺す" というのは命を奪うまでいかなくとも、病気や自殺への追い込むなどその人が健康で文化的な生活を営むのを妨害するというニュアンスだ。
例えば現代の職場。セクハラやパワハラ、うつや過労死。人を追い込み、追い込まれた人は退職を余儀なくされたり、病気になり復職が難しくなったりするケースがある。最悪の場合は自殺、病気などで死んでしまうこともある。
締め切りまでにプロジェクトを完遂しなければならないという "イデオロギー" のもとで生きているとしよう。その元に高い要求水準と無茶な締め切りを立てた誰かがやってくると、期日まで人の命を使い潰すことがある*2。
労働契約以上にメンバーの生活や命までもプロジェクトに費やさせる。"拷問" や "虐殺" に他ならない。
ほとんどのプロジェクトでは病気や死者、退職者が出るほど悲惨なことにはならない。しかし、急な締め切りがやってくることはそこまで珍しい現象でもない。そして "イデオロギー" のもと "戦場" で命をすり減らす。
こう考えると、連合赤軍の事件は僕らの日常と地続きだ。テロリストの拷問と虐殺という暴力は極左イデオロギーに下支えされていた。そして暴力という形はとらないが、僕らも同じように "イデオロギー" にした支えされた "暴力装置" を持っている。
暴力を行使せずとも、その気にさえならなくても僕らは人を使い捨てることができる。死に至らしめることができる。「顧客のため」、「社会のため」、「会社や自信の成長のため」というイデオロギーの名のもとに。
人は無自覚に人を "殺す" 構造を作り出すことがある。そして "死んで" から、それが人を "殺す" 構造だったと気づく。
失ったものはもう戻らない。ならばせめて、過去の教訓から学び明日をよりよく生きるしかない。