Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

いつもどおりの1日

日曜日、という意味がよく思い出せない。

なにせ常に家にいる。不要不急の外出を避けると、スーパーかコンビニか、外食くらいしか行くところがない。さすがに食料に関することであれば不要不急ではないだろう。生存、及び健康的な生活に必要な重要な要素である。とはいえ、それらは平日も行っているわけで、そして平日もやはりずっと家にいるわけで、休日だからとか平日だからとかの境界線がまるでない。強いて言うなら、開いているラップトップが個人のものか会社支給のものかくらいの違いしかない。

当たり前のように行っていた居酒屋も休業してしまったり、そもそも行こうと誘えるような感じでもない。ほんの少し前まであった日常が、いつのまにか当たり前のように非日常になっている。足のように使う公共交通機関は感染拡大の温床とされるし、普段いるはずだったオフィス街は危険な場所になっている。理由がなければ出社するのが常識だったのに、理由がないのに出社すると危険だと言われる。人間の常識や習慣なんて、案外もろく儚いものだ。

今の所、僕の命に危険はない。ウイルスもさることながら、日常的な通院も必要ないので医療現場に関わることはないし、物流が崩壊しているわけでもないのでスーパーで今日の惣菜を買うことは簡単にできる。電気ガス水道も金さえ払っていれば利用できるし、業務にも大きな支障はない。いつもどおり誰かに支えられて僕は生きている。そんなことを思う。

いつもどおり、そういつもどおりなのにどこかおかしい。

僕は微妙な差異が苦手だ。全く違うのなら適応できるのだけれど、似ていて少し違うと適応できなくなる。Windows10 と macOS くらい違うと苦もなく受け入れるんだけど、GNU sed と BSD sed の違いは気が散る。いや、全く伝わらなそうな例えをしてしまった。だけどこの日常の差はまさしく「似ていて、少し違う」ものだ。普通に週5勤務だし、土日休み。だけどその内実はいろいろなものが場所とかで区別されていたものが、物理的な制約をひどく強く受けることになって、区別できなくなっている。

生活が一変などしていない。やっていることは何も変わらない。強いて言うなら空間の制約が変わっただけだ。それだけのはずなのに、どうしてこうも気が散るんだろう。

まだまだ、自分が生きていくことしか考えられない。数ヶ月前に考えていた崇高なものは、いつのまにか忘却した。わかっている、それだけのことが起こっているのだ。平静で居られないほどの事態が起こっているのだ。僕だけじゃない。全てが狂わされている。まだまだこの狂乱の宴は続く。

桜が葉桜に変わっていく。時はいつもどおり流れている。

今の自分がどんな気持ちで生きていようと、初夏を感じさせる5月はやってくるし、梅雨はやってくるし、嫌気が差す夏もやってくる。そう、いつもどおりだ。いつもどおり。

変わりゆく社会で、変わらないものを拠り所に、変化を受容していきたい。そうやって、いつもどおりに、生きていきたい。

春はゆく

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