幸せについて
なにかと不安な世の中だからこそ、数字などの指標で物事を測ったりしたくなるのもかもしれない。
ある記事がはてなブックマークいくつだった、あるツイートが数万RTされた、ある投稿のいいねがいくつだ。そんなことばかり気にして、競い合って。
自分の人生くらい、自分で肯定してあげればいいのに。
他者からの承認、いいねボタンから得られる気軽な承認。そこで得られるものは優越感ではなく、安心感なのかもしれない。「自分はいま幸せなのだ」と他者から認められることによって。
映えない人生
僕の人生など映えないものだ。僕は写真を撮らない、動画ももちろん撮らない。旅行にいってもほとんど何も見ないで帰ってきてしまうし、他者が羨むもの成分は僕の人生にはほとんどない。
でも、それでよくないだろうか。
自分の人生だし、自分が価値を感じること、感じるものを選択すればいい。
もしかしたら、毎月10冊本を買うより1年に1回でもヨーロッパに旅行したほうが映えるのかもしれない。
もしかしたら、毎週映画を見るよりもドライブで面白い景色を撮りに行った方が映えるのかもしれない。
もしかしたら、酒を飲みに行くよりもライブに行った方が映えるのかもしれない。
でも、自分の中での「非日常」を過剰にアピールして、自分の人生を、自分が幸せであることを他者から認められることで実感する。
その行為、幸せな人がする行為だろうか。
僕は自他共に認める「映えない人生」を歩んでいる男だけれど、それでも十分に幸せだ。
幸せの正解
「ステッカーにして貼られた本物の印だけど そう主張している方がニセモノに見える」
Mr.Children 「掌」
幸せを強調すればするほど、かえって心配になってしまうのは僕だけだろうか。人に羨ましがられる人生を歩みたくて、僕らは生まれてきたのだろうか。そんな「幸せ」を僕らは果たして願っているのだろうか。
求める幸せは人それぞれだ、正解なんてない。そんなことはわかっている。だけど、SNSの「いいね!」がこんなにも多くの人の突き動かすというのがとても不思議で、とても恐ろしい。