最近やっと、フィクションだから伝えられることもあるなということが分かってきた。
嘘から出た真なんて言葉があるけど、そういうことではなく。
例えば、僕が「女性ももっと政治参加するべきだ」と思っているとする*1。しかし、女性ももっと政治参加するべきである理屈を理路整然と並べ立てても、別に大して意味はないとも同時に感じる。
そこで「女は政治の世界から出ていけ」と主張する人物を小説に登場させる。それがもし僕の考えならば、決して好ましくは思われないだろう*2。しかし、それは登場人物の主張であってそれは僕の主張ではないから僕の主張だとは受け取られない。存在もしない誰かに好きな主張をさせることが創作であればできる*3。
そして舞台を考えることで主張ができる。例えば、「女は政治の世界から出ていけ」と主張する A さんの親族 B さん(女性)が政治家になろうとする話を考える。大雑把に B さんが A さんとの関係性で苦悩したり、ハラスメントにあったり、女性トイレの数がないとぼやいたりしながらも、B さんは最後選挙で政治家になる、とか。このストーリーを通して「いろいろ大変なことはあってハードルは高いけど、女性じゃないと気付けないことっていっぱいある」みたいなメッセージを含められるのではないかと思う。
全部嘘だから、本当のことが言えるみたいなことを思う。音楽とか小説とか全部嘘というか、現実に起きていることではない。なんだけど、嘘だからそこに「筆者」さえ存在しなくて、そこに本当のことを紛れさせられる。
自分が不在だから、本当のことも嘘になる。
こんなこと書いたけど、別にメッセージを伝えたくて創作をするわけでもないのだと思う。
僕の場合は、作りたいものが先にある感覚がある。その先にあるものがなぜあるのかを突き詰めると、自分が言いたいことが見つかる、みたいな感覚だ。
あと、別に読者に伝わらなくてもいい。僕自身、小説から何かを学ぼうと思ったことなどない。どうでもいい断片から学びを得ることもある。
あと、僕の意図したように伝わらなければならないわけでもない。意図から外れるから面白くなる。
ところでブログを書いていて思うのだが、全部「僕が話している」という体裁になるのでとても表現の幅が狭いなと思う。
僕の本心ではないことは全く出てこないし、センシティブな話は書かない。日本人、30歳前後、男性という属性から見た視点しかない。
もちろん演出もできるし、盛れるし、嘘も書ける。だけどたとえば女性が書いた文章になることはない(紀貫之の発想にさえ劣っている!)。
なんかもっと違うことが言いたい、違うことを書きたいとよく感じる。狭い世界でしか生きられないもどかしさを感じている。