Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

数学を勉強できなくなったので休学をすることに決めた

書こうかずっと迷っていたのだが, 書くことに決めた. なぜ迷っていたかというと, なんとなく書いてしまうともとに戻ることはできなくなってしまう気がしていたからだ. しかし, 僕にはもうもとに戻る気はさらさらないという確信が持てた. だからいっそのこと迷うことをやめるためにも書いてしまうことにした. それに, 人生でそう何度もあるはずのない転機を全く記録しないのは, 誰よりも僕にとってもったいないことだと思った.

しかし, シン・ゴジラの赤坂補佐官も言っていたように, 憶測ではない確実な情報のみを発信するべきであると思うので, 確定していることだけをここに書くことにした. 端的に言えば, 過去のことは書くが未来のことは書かないということになる. これはここ最近は徹底していることで, 何をしようとしているのか(今後の予定)を書くよりは今日何したか(結果)を書いたほうが確実だし意外と有益だし, 何より自分が損するリスクがかなり低い.

前置きが例のごとく長くなってしまった. まず結論を書こう. 数年間勉強してきた純粋数学から一度離れることを目的に休学をすることにした.

休学を考え始めたきっかけ

以下, 数学というのは純粋数学のことだと思って欲しい. 純粋数学といっても何のイメージもわかない人は, 受験勉強とかで出てきた整数問題を大学院に入ってもやっているのだと思ってくれればいい. 正しくはないが間違っていない.

自身の数学に対する態度

いつ頃からか判然としないが, 今年の 6 月や 7 月からだっただろうか, 「なんでこんなことも考えられていないんだろう」と思うことが増えた. 指摘されることがあまりにも初歩的すぎるのだ.

例えば,

  • べき級数が収束半径内で絶対収束をする
  • 正則関数列の広義一様収束極限関数は正則関数である

といったことがわかっていればすぐに帰結できる議論をやっていなかったことがあった.

他にも,

  • 帰納的極限が同じとはどういうことか

といった抽象的ではあるかもしれないが, 決して難しくないことについて考えていなかったりした.

いよいよ, 8 月に入ってからの自主ゼミで表面化してきて, 数学ができない, やりたくないという状況が続いていた. ゼミの前日だというのに何も考えていない, とりあえず徹夜して発表らしきものをできるように原稿の体裁だけ整える, でもわかっていないから全然発表できていない*1というのを 2 回くらいやった. こんな状況では周りにも迷惑だし改善したかったが, 改善しようと思っても行動できなかった. 大学にきてわからない問題を考えても, 何もわからないとそうそうに諦めてしまう. いつの間にか自分で考えることを放棄し, 誰かから与えられた「答え」を求めるようになっていった. それを一ヶ月弱くらいかけて自覚した時, 今の僕にはもう数学はできないと確信し休学か退学をしようと決めた.

自分の中で体系化する

なぜ「答え」を求めるようになったときに確信したのかということをこの節で書く. 正直自分はもう部外者だという意識があってあまり書きたくないんだけど, この記事の読者が数学科ばかりとも限らないので書いておこうと思う.

数学というものは, 自分が勉強や研究していく過程で, 自分の中に自分で作り上げていく学問だと思う. 確かに背景に論理があって, 客観的に「正しい」のか「間違っているか」を多くのことに対して決定でき, 既に体系(理論と言ってもいい)が存在すると考えている人のほうが多いだろう. しかし数学科の人間ならば一度は経験するように, 実は 体系化されたものを眺めているだけでは何もわからない のだ.

たとえば, ニュースを見ていると*2, 事実を淡々と伝えるものがある. 「誰々はこのように主張した」とか, 「どこどこでなになにをが盗まれた」とか. こうしたことは「事実」であり, 変えられない. それをどう解釈するかは実は報道側の役割ではなく, その報道を見た視聴者(読者, リスナーかもしれない)に委ねられている. 「なんて残忍な事件なんだ, 再発の防止を求める」とか, 「この程度で大騒ぎしすぎだろ」とかの感想は視聴者が個人で持っている限りは自由だし, そういった価値観を報道側が押しつけるべきではない. しかし, すべてを視聴者に判断させることはできない, 背景を理解するためには外交問題だったり犯罪心理学があり, 専門的知識がないと理解できないこともある. なので, こうした難しいニュースを専門的見地から詳細な解説をするといった趣旨の番組は存在しているべきだ.

これを数学に焼き直してみると, ニュースは数学書に書いてある「定理」だったり, 「理論」に相当するものになる. それは紛れもなく「事実」だからだ*3. そして読者である学生だったり, 数学を勉強したい人はその本に書いてあった「事実」を適当に解釈し, 自分の中で体系化する必要がある. その方法は数学書の中にはあまり書かれていない. そして解釈したものをセミナーなどの場で指導教員の前で発表し, 専門的な見地から自分の発表をレビュー, 修正などをしてもらうのが数学科での指導にあたるものになる.

上に挙げたプロセスで最も重要なのは, 「事実」を適当に解釈し, 自分の中で体系化することである. 自分が理解しなければ, 自分が納得しなければ, 数学を勉強しているとは言えないと僕は思う*4. なぜなら, 既知の「事実」を導くことが重要なのではなく, 自分が新たな体系を作る, 新しく何かを考えるために体系を作るプロセスを学んでいくことが必要だからだ.

しかし僕は, 前節に書いたように誰かが書いた答えを求め, それを鵜呑みにするという作業に終始するようになっていった. 「自分の中に体系化する」ことを放棄し, 数学の勉強を他人の理解のトレースをするわけでもない, 頭を使わない「作業」に落とし込むようになっていき, それをいつの間にか厭わなくなっていた. だから僕にはもう無理だと判断した.

免罪の意を込めて書いておく. やめた分際でこういうことを書くのはおこがましいし, 自分は結果を出すどころか基礎的な勉強中に嫌になって投げ出した人間なのでこんな偉そうなことを書くのは嫌なのだが, 今回が最後なので許して欲しい. この文章を書き終えたら, 二度と数学についての僕の哲学は文章にしないつもりだ. 僕が何を考えてこの決断をしたのかを, なるべく正確に保存するためにはこの記述をしておきたかった, 他意はない.

その他の理由

単に忙しすぎた

正直この 4 月 - 7 月はものすごく忙しかった. 何をしたのかよく覚えていない. あまりにも自分がどう生きていたか忘れるので, 5 月, 6 月あたりは「短い記事」などと称して考えたことを簡単に書いた気がするが, いま読み返すと要約すると「大学院をやめたい」としか書いていないし, こうなるのは目に見えていた気がする.

夏休みにいろいろ理由を考えたり, 後期からどうするのかを考えたりする時間ができて, 決断をする余裕がやっとできたということだ. まるでブラック企業で働いている人がやめようと考える時間さえないみたいな理屈だ.

父親の病気

これはどちらかというと, 少なくとも後期課程への進学はやめようと決意した瞬間だったような気がするので, 休学とはあまり関係がない.

1 泊 2 日と軽い入院ではあったが父親が手術をした. 重い病気でもなく後遺症もない. だが, 発見が遅ければ死んでいたらしい. それを聞いて, 恐ろしくなった. 父親はもうそういう年齢で, もし健康診断の機会がなければ僕が修了する前に死んでいたのかもしれない. そう思うととてもまだしばらく学生で居ようとは思えなくなった.

プライベートなこと, 他者が関係すること

少し思うところがある事件が 2 つあった. 他人が絡むとさすがに自分の一存では書けないこともあるので, ここには書かないことにする.

念の為言っておくけど, 恋愛沙汰ではない. 残念ながら.

休学に至るまでのプロセス

両親の存在

とりあえず親の承認は案外あっさりもらった. 数学のことはよくわからないが, 実家暮らしとはいえもう 23 歳だし, お金もかからないなら自分がそうしたいならそうしたほうがいいと.

多謝.

もろもろの印鑑

あと指導教員と偉い人の印鑑が必要だと思う. 一度面談してもらい, 印鑑をもらった. 何を相談したのかはここには書かないけれど, そんなに大したことは話していない. 休学を考えるきっかけになった上に書いたようなことをかいつまんで話した.

その中で休学経験のある先生にアドバイスされたり, 一般論を語られたり, 友達との交流を断つのはやめろよとかそんな感じ.

休学とはどういう状態なのか

とりあえず自分の経験したことをだいたいで書いておきます.

講義の履修ができない

当たり前ですね.

TA ができない

これも当たり前といえば当たり前ですね. でも日本の大学院の TA 制度はアルバイト以上のものではないので, 教育経験みたいなのが欲しいのでなければ特にやる必要性はないと思いますが.

学生の使える施設はわりとだいたい使える

図書館とかを使うのに全く制限はかからないです. 試していないけれど, 大学によっては運動施設などもあるのでそういうのも自由に使えるでしょう. もっと平たく言うと, 学生証が有効です. カウンセラーさんといろんな相談ができる相談センターみたいなものも使える.

まとめ

この記事を読んでいる人がどういう人なのか想像ができませんが, この記事は誰かへのメッセージではなく自分のしたことの記録です. なので別にまとめとか書いて伝えることが目的ではないわけです. が, もしひとつ大学生活に関して悩んでいる人に言いたいことがあるとすれば, 安易に退学をしないでください, ということです. 退学というのはものすごく大きな選択です. 大学をでて起業したいと言った若い人が最近炎上したけれど*5, 大学という組織に所属していることは大きな強みです. 膨大な書籍資料にアクセスできます, あらゆる分野のエキスパートが居ます. 自分がいまの学問とは違うことがやりたい時に, それを専攻している友達を探すことができます. 中退したらどれも使うことはできません. 一般論としては, せっかく休学という制度があるので, 後戻りする道は残したまま違う道を一度進んでみる, 失敗したらやり直す(保険をかけるのが嫌だというのならとめませんが), という道をなるべく選ぶべきだと思います.

一番大事なのは, 休学にせよ退学にせよ, はたまたいやいやながらでも勉強を続けるにしても, 冷静な判断をするために努力を惜しまないで欲しいです. 具体的に言えば, 両親, いるなら指導教員, 友達など他者に話してみる. 言い難いと感じるようなら, 自分の考えていることを文章にして読んでみる, ということでもいいと思います. こういう小さくない決断をするときは,「自分が何をしたいか」よりも「自分は何をすべきか」を考え, それが固まっていないうちに行動に移すのは慎むべきだと思います.

僕がやるべきことは, 数学をやめることでした. このまま続けてもなんにもならないとわかっていても, 先月までの自分は数学をやめる勇気がなかった. でも今は不思議なくらい未練も後悔も何もありません. 自分は今まで数学にとらわれすぎていたのだとさえ感じています. 数学科に入ったから数学をし続けないといけないと無意識に言い聞かせ続け, 自分が興味を持ったこと, やりたいと少しでも思ったことを諦めたり, 見なかったことにして今まで過ごしてきたような気がします. でももう何も気にする必要はありません. 映画を見まくっても, くだらないスクリプトを書いていても, 何をしていても僕の自由です. 遊んでいるだけと思われるでしょうが, 数学をしていることと遊んでいることは今の日本社会では区別できる人は少ないでしょうからあまり気にしません. むしろ復学したほうつらいだろうなという予測でいっぱいです. でも数学が嫌いになったわけではありません. なんでなんだろう, 自分でもよくわかりません.

いずれにせよこれで僕も今日からは一介の数学好きで映画好きなモラトリアム期間中の男です. これからどうするかは最初に書いたように, 終わったら書きます.

*1:そして発表になっていないのが自分でもわかる.

*2:日本のニュースには例外もあるしそれは良くないことだと思うんだけどその話はしない.

*3:たまに間違いもあるけどここでは考えないことにする.

*4:念の為, ここでは純粋数学に話を限っていることを改めて書いておく. 数学を使う立場の人がここまで気にすることはない. 自分の文脈でその数学が本当に使えるかどうかを判断しさえすればそれでいいだろう.

*5:読んでいませんので中身については何も言いません.