最近, 黒澤明監督作品 「生きる」 を購入した.
いつかの記事に書いたけれど, 以前この映画の感想は一度記事にしているのだが, 過去に消してしまった. そのため, もう一度鑑賞して書き直すことにした. この作品は一年前の僕に強い影響を与えた物語であるし, この作品についての記事がこのブログにはぜひ残したいと思うからである. しかし当時何を書いたのかはあまり思い出せなかったので, もう一度見直して改めて感想を書くという形式にした. なんにせよ自己満足である.
作品概要
タイトルと監督の名前は知っている人が多いだろう. 1952 年公開, 東宝 20 周年記念作品, 主演 志村喬(たかし), 胃がん*1に侵された主人公, 渡辺勘治が死を前にして何をしたのかがテーマになっている. ほかにも, 役所の縦割り行政, 事なかれ主義に対する批判なども描かれている. ほかにこの映画で有名なものといえば, 「命短し 恋せよ乙女」 の歌いだしから始まる 「ゴンドラの唄」 だろうか. 作中の主人公が泣きながら歌うシーンがある.
今回はあらすじは省略する.
感想
鬼気迫る名演
私は, 主演の志村喬さんについてはよく知らない. しかし, この演技を見て彼を名優だと思わない人は演技を見る目がないと思う. 作中の最初の 90 分間はほとんど彼が出ている. 彼は真剣に悩み続け, その姿は見ようによっては滑稽かもしれない. 口下手な彼のつたない言葉をよく聞いて見てほしい.
通夜
この映画は, 大まかにふたつに分けられる. 主人公が悩んでいる 2 週間と, その 5 ヵ月後の通夜のシーンである. どちらが本編とも言い難いが, この構成が人が 「生きる」 ということの本質を如実に表している.
2 週間思い悩んだ末, 渡辺さんは市民課長*2として市民のために公園を作ることを計画する. その際にいわゆる縦割り行政や, 権力構造と戦い計画を実現させるまでの姿は直接は描かれない. その部分は, 通夜の席で渡辺さんの思い出話をしている間に回想として描かれる. 逆に, この 5 ヵ月以前のことはまったく描かれない. これがこの映画の本質だ. つまり, 誰も公園を作っていない期間の渡辺さんは思い出せない*3のだ. つまり何かをなそうとしている人でなければ, 生きている(いた)ことにならないことをこの映画は示唆している.
生きた証
彼は公園という生きた証を作った. しかし, 同時に公園ができたことに喜ぶ市民, いつまでもしぶとく権力にたてつく渡辺さんを疎ましく思う市会議員, 職場の部下, 市役所の別の課の人間たちに対し, 自らの意思で働いていた姿を, 自分が "生きていた" 記憶を多くの人に植えつけた. 彼はたった 5 ヵ月しかそれをできなかったが, その 5 ヵ月でも彼は "生きた" のだ.
総評
生きるということは生まれればできる. このブログを読んだあなたは既に生まれているはずだ. しかし, 何かをなそうと努力をし, 誰かの記憶に(どんな形であれ)残るように "生きる" こと. それが自分の存在の証になり, 自らの生きる目的になる.
そう, ある意味でこの物語は当たり前の話だ. しかし, その当たり前を実行に移すことはどれほど難しいだろうか. きっと誰でも, 何かをなそうと思い立ったが, その障害に気づいてすぐにやめてしまった経験など 1 度や 2 度ではあるまい. しかし, ひとつでも何かをやりきれば, 僕もきっと "生きた" ことになる.
僕は, まだ何もしていない. だから, もう少し生きていたい.