Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

悲しいなぁ

ああ、悲しいなと思う。過ぎ去ってしまった8月への感想ではないし、季節性のものではない。一過性のものでもない。

とても残念なことがあった。ただただ、残念だとしか言いようがない。

割り切れる真実

物語は何かしらの結末を迎えるけれど、現実世界ではそうも行かない。結末らしきものがあったとしても、この世界は望むと望まざるとにかかわらず続いてしまうし、何か明瞭な真実があるわけでもないし、何か明瞭な終わりがあるわけでもない。

正義も悪も所詮は相対的なものでしかないし、むしろ絶対的なものを定めてはならないのだというのが歴史教育から得られる教訓のひとつでもある。

そんなことを、Netflixのドキュメンタリーを見ながら考えていた。

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今となってはなにがあったのか、もうわからない。

真実なんてものがあるとするならば、それは虚構の中にしかない。真実の存在自体が虚構とも言える。なにを言ってんだ。こういう何か言ってそうでなにも言っていない言い回し高校生の時に好きだったけど、今でも油断すると出てくる辺りなにも成長していないのかもしれない。

それはさておき。

結局、つい僕も欲してしまう真実というやつは、実際にはどこにもない。たとえそのドキュメンタリーで取り沙汰されている殺人事件の真犯人がわかったとして、僕の心はすっきりするかもしれないけれど、それは別に何の解決にもならない。それに「それが真実である」保証なんてどこにもない。

僕は名探偵コナンをみるのは好きだけど、あれは伝統芸能だと思っている。犯人を賢い子供が暴けば、事件の全貌は芋づる式に明らかになる。でも実際そんな事件なんて存在しないし、それに彼が暴いている真実とやらは辻褄の合う説明でしかない。

現実の事件においては、誰もが自分の見地から辻褄の合う説明くらいできるものだ。議論を戦わせている二人ともが辻褄の合う説明をしていて、そのどちらにもそれなりの信憑性と説得力がある状態というものはそんなに珍しくないだろう。僕は模擬裁判みたいなものを聴いた時に、そういう議論を聞いたことがある。

そもそもの問題は、殺人事件にしろ麻薬取引にしろ、犯罪が多い街であるということだ。良識のある市民は犯罪のない(あるいは少ない)街を望んでおり、そのために戦っていたのは果たして誰だったのだろうか。とはいえ、戦っているからと言って嫌疑をないことにしてもいいのだろうか。やはりどちらも正しいし、どちらも完全には正しくない。

割り切れない現実

正しいこと言っているけどムカつくことだってあるし、間違っているけれど受け入れてしまうこともある。誰にも悪意はなかったはずなのに、残念なことになってしまうこともある。

「無能で十分説明されることに、悪意を見出すな」という言葉がある。認識の齟齬があったとき、おかしな質問が意見をぶつけられたとき、何かしらの問題1のサインだと認識している。故意に(言い換えれば悪意を持って)引き起こされたことかどうかの判断は先送りにして、なにがその問題を引き起こしているのかを考えなければならない。本来は。

今回はそれさえも叶わなかった。なにがそういう状況に追いやってしまったのか、もはやわからない。

怒ってなどいない。とても悲しい。

どんな理由であれ、そんな状況が引き起こされてしまったことが。そんな状態に知らぬ間に追い込んでしまっていたことが、とても残念でならない。


  1. 『エンジニアリング組織論への招待』の認知の歪みに相当すること。