Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

「自分の言葉」を書かない人

こんな人って本当に居るんだな、って話。

僕はこのブログなり、他の場所なり、文章を書くときには自分の言葉で書くことを重視している。この記事も特に参考にするものはなく、テキストエディタだけ開いて書いている。知識系やコマンドを書くときは調べたりコピペしたりすることもあるが、最近は思っていることを書くことのほうが多いので、思うためには何かを参考にする必要もない。何も見ないで思ったことをそのまま文章にしている。

自分ではない誰かがやったことを自分がやったように見せない、という当たり前のルールを守るためである。

僕は卒業論文1を書いたときに、基本的なルールとして剽窃はしないこと、すなわち「自分がやっていないことを自分がやったように見せること」はしないように教わった。自分がやったことと、自分ではなく他者がやったことはその文章だけで判断できるようにすること、すなわち他者の業績は適切な引用をして自分の業績ではないことを明確にすること2。それが例え研究者にはならなくとも文章を書くときに絶対に守らなければならない基本的なルールである、と。

ついでに言うと、文章を書いているときに他者の言葉を混ぜるのはそれなりの技量が必要なことで、引用が多すぎる文章や不適切な引用が混じっている文章はかえって読みにくかったり一貫性を欠いていたりする。だから僕はあまり引用をしない。多くの場合、自分で書くよりも引用した方が頭を使うからだ。

上に書いたのはあくまでも大学、つまりアカデミアの話だと思われるかもしれないが、他者の実績や作品に敬意を払うというのは、目上の人に敬意を払うレベルの常識だと感じている。

だから、僕には不思議なのだが他者が書いたものを切り貼りして自分が書いた文章として納品あるいは公開できるのが僕には不思議でならない。仕事であっても、Qiitaの記事であっても、なんでも。

例えば、同じ会社の人が過去に作った文章をほぼそのままの形で(僕の著作物でなく会社が作ったものとして)流用するというなら理解できるし、そのほうが仕事は早く終わるだろう。これは別に問題はないと思う。

だが、誰かの書いた見出しに合わせ、別の誰かの書いた内容を切って箇条書きにして貼る、これのどこか「あなたの仕事」なのだろうか。あるいは「あなたが書いた記事」なのだろうか。まずとても読むに耐えないし、書いた本人でさえ理解していないとバレバレである。そんな文章をよく公開できるな、などと思う。

時間がない、締め切りが近い、そんな言い訳で自分を騙せるような人間にはなりたくない、そんなことを思う年度末。

Footnotes

1 とは言っても名ばかりで一度くらいしか教員に読まれていないが。

2 引用文は2字下げしたり、斜体フォントに変えたりするのは形式の違いで筆者の言葉か筆者以外の言葉かを明らかにするためのものだと思っている。