OCaml
講義で(講義で)*1OCaml を後輩が書いているというので, 少し環境設定の手伝いをした.
OCaml は IDE とかの存在も聞いたことがないので, 正直なトコロ Emacs 以外でどうやって書くんだろうという感じなので, ちょうど Cygwin に Emacs がはいっていたので Emacs を少し教えた. Emacs は今は使っていない*2が, さすがに Package.el やらなんやらは覚えていたので, OCaml の mode くらいはインストールくらいは一応やったはず.
昔数行書いたことがあるだけだったので OCaml のことはよくわからないが, 少しだけ思い出した. いい機会だったのかもしれない.
当たり前なようで当たり前でないこと.
この世にはたくさんある, 当たり前なようで当たり前でないこと.
少なくともネットの記事とかを読んでいる限りでは, ES2015 では class
が使えるようになり, そしてしかも現状最新 Google Chrome では ES2015 に対応したのでもう(商業向けはともかく趣味の範囲や開発者の間であれば)使える状態にあることはなんとなく"よく知られていること"に感じられるのだが, 現実にいま僕と'仕事'している人たちと話すと肯定的な返事は多分返って来ないだろう.
あまり調べないのだろうか. あまり自分とは関係ないと思っているのか. なんなのかよくわからないが少しさみしい気持ちもある.
この文章を書くために node
を使って ES2015 の Class 記法をお遊びで試してみたりもしてみた. そういうこともしないのだろうか. やはり少し悲しい.
僕も常に何かを作っているという生活をしているわけではないが, 常に興味関心くらいは持っていて欲しいなとなんとなく思ってしまう.
数学とかでも思うけど書かない.
いずれにせよ, 「なるほどこういうことも非自明なのか」って最近は口癖のように言っている.
情報の多さに疲れてきた
上の段落と全く逆の話.
情報を手に入れすぎるとめちゃくちゃ疲れることがわかった. テレビを見なくなった理由が自分ではよくわからなかったのだが, 今はおそらくネットを見ることとテレビを見ることを両方やると猛烈に疲れるからであろうということが想像がつき始めた.
最近は情報は向こうからやってくる宣伝でないもの以外は見ないようにしている.
向こうからやってくるものはほとんど宣伝なので, つまりたいていの情報はあまり手に入れようとしていないということだ. 疲れるからだ. 頭に何かをいれるのは, 保存を目的にしてなくてもものすごく疲れることだと知った.