Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

多様性という理想と現実の自分

まえおき

ブログで話題にするのを避けるべきことに、炎上しやすいテーマというのがあると思っている。そして自分の視野の範囲で炎上しやすい話題といえば、性差であったり、マイノリティへの発言だったりする。

今日はそんな話を書こうと思った。既に気が重い。書きたくない。

立場をはっきりさせるために、わたしはこうした話題の際には自分の年齢と性別、及び自分が念頭に置いている範囲を書く。わたしはこの記事を書いている時点で26歳男性であり、ITエンジニア、ソフトウェアエンジニアと呼ばれそうな人たちが集まる場を想定してこの記事を書いている。

コミュニティの多様性

勉強会、カンファレンスなどにおいて常々話題にあがるのが、そうした場に女性が少ないことだ。わたしはITエンジニアの総人口を知らないし、男女の比率がどれほどのものなのか知らない。ただ勉強会に行ってみると女性が0人なんてこともあるし、100人とか200人とか参加者が居ても女性が10人も居ない、という現場はよく見ている。

多様性が重要である、と(根拠はなんであれ)信じられ始めている昨今の世界において、どんな場であれ偏りがあるのは喜ばしいことではない。地理的な理由などで外国人の方が少ないのは仕方ない部分はある。しかし蓋を開けてみれば、地理的な障害は少ないはずの日本人に限ってみても勉強会参加者のほとんどが日本人男性であるというのが常だ。明らかに性別の偏りはあるし、その偏りを産んでいる何かがある。

先に断っておくと、わたしにはこの理由はわからない。そしてわからない理由はたぶんわたしが「ITエンジニアの勉強会参加者」というカテゴリにおいてマイノリティに属していないからだ。

人は残念ながら、集団において少数派を無視したり、弾圧したりしがちだ。歴史もそう物語っているし、何も教えていないのに小学生だって集団をつくれば同じように振る舞う。「多様性(ダイバーシティ)が重要である」という価値観はとても自然発生するものではなく、理性的な判断から生まれたものだ。だからこの課題を打破するために施策を講じなければならないし、時間をかけて価値観の変化を促し続けなければならない。

しかしこのテーマにおいてはわたしはマジョリティだ。どんな勉強会に参加することも特に抵抗はない。だから、参加するのを躊躇う気持ちというものが何もわからない。この問題に対してわたしが有効な施策をうつことはできない。何が問題なのか、どれほど頭を捻ったところで気づきようがないからだ。

炎上リスク

マジョリティがマイノリティに対して心無い言葉を投げかけるのが激しく非難される風潮もある。わたしも柄にもなく怒りを覚え、非難をする側に回ってしまったこともある。

誰かを不快にさせるような言動はマイノリティを排斥することにつながるし、コミュニティの多様性を損なう。互いの背景に思いを巡らせ、尊重し共生していくことが美徳とされる。

近頃は行動規範(Code of Conduct)が多くのコミュニティに制定されているのも、そうした流れの一環だろう。誰かを不快にさせる発言・行為・発表は悪だという認識が徐々に広まりつつあるとわたしは感じている。わたしはこの流れを歓迎しているし、コミュニティの一員として行動規範を遵守しているつもりだ。

ところが、コミュニティにて参加者の一員として振る舞うとき、わたしは炎上、非難をとても怖がっている。マイノリティに対して言及したり、何か行動したりすることを過剰に避けている自覚がある。

対マジョリティに対してコミュニケーションを試みるときには、あまり躊躇いはない。しかし、相手がマイノリティだととても怖く感じる。自分が十分に倫理的である保証なんてどこにもないし、自分の言動が誰かを不快にさせない保証なんてどこにもないではないかと考えてしまう。

仮にわたしが問題のある言動をしたとして、そうした言動が正規のルートで運営に報告されれば、それなりの注意や処分を受けることはあっても、社会的に死ぬことはさすがに免れるだろう。しかし、ネット上で写真や動画でも撮られて第三者に晒されれば、どうなるのだろう。

わたしは炎上したことがない。だから炎上したあとの未来というのをうまく思い描くことはできない。多分仕事は続けられるんだろうけど、もしかしたら会社の女性陣から白い目で見られ続けるのかもしれないし、勉強会に参加するたびに「あの人〜〜の会で問題を起こした人だよ」と陰口を叩かれ続ける未来が待っているのかもしれない。あるいは意外と普通に生きられるのかもしれない。

リスク回避

別に注意や処分、批判や非難をやめてほしいと思っているわけではない。実際に問題を起こす人は残念ながら居るし、そうした人を野放しにすることがコミュニティにとって良いことだとは思わない。しかし見方を変えると、マジョリティがマイノリティに接したり、言及した時点でその人はある種のリスクを抱えることになる。

わたしはマジョリティとしてマイノリティに接するという行為に対して、非常に大きなリスクを感じている。そしてこのリスクという感覚は、回り回ってコミュニティの多様性を阻害することにつながってしまうのではないかと思う。たとえマイノリティがその場に居ることを受け入れたとしても、マジョリティと同じように議論や発表、提案や意思の表明、雑談に参加などを自由にできなければ、それは本当の意味でマイノリティを受け入れたことにはならないからだ。

マジョリティの皆がマイノリティを避けているとは思っていない。しかしマイノリティを避けていることと、マイノリティとのコミュニケーションを避ける気はないがたまたまマジョリティ同士でのコミュニケーションしかしなかった人との区別は、第三者にはできない。だからそうしたことをリスクとして認識している人がどれほど居るのか可視化されることはない(わたしだけかもしれない)。

わたしは、正直なところ、マジョリティ同士でコミュニケーションをしているほうがリスクが少なくて楽だと感じている。炎上や非難のリスクが小さくなるし、第三者からは多様性を妨げる行いをしていると思われないからだ。しかし同時にわたしは、この行いが誤っていると思っている。

建設的なフィードバック

人間は易きに流れるものだ。わたしが特定のコミュニティでマジョリティに属している場合、結局マジョリティとしかコミュニケーションしないだろうなと思う。やはり、そもそも参加者の多様性を担保できるよう、マジョリティとマイノリティの区別がその場で生じないよう、参加しやすい会やコミュニティを形成していくしか方策はないんじゃないかと思う。

勉強会を主催したことさえないが、自分のことを棚に上げて偉そうなことを言う無礼を見逃してほしい。

note.mu

たとえば、上記の記事はいくつかわたしにはない視点がある。そもそも立地なんて気にしたことがなかったし、立ちっぱなしはキツイと感じたことはわたしにはない。それはわたしがケガも病気もほとんどしない健康体だからだ。

良い会にするために必要なのは、独身男性の五体満足の若者でマジョリティのわたしの意見ではない。勉強会の参加者として増やしたいのは、マジョリティが気づけない障害で参加をためらっている・参加できない状態に追い込まれてしまっている人たちだからだ。

そのような人たちを会に呼び込めるのは、当たり前のように会に参加できるわたしの意見ではない。基本的には勉強会などに参加はできないが、配慮されている場であれば行ける、という方々のフィードバックが重要なのだと思う。

ローマは一日にして成らず

しかし、こうした人たちに対して気を配ることができたとしても、参加者を増やすことはそれでも難しいだろう。つまらない結論になるが、わたしがなんとかできるわけでも、勉強会やコミュニティの運営がなんとかできるわけでもなく、時間をかけて努力し続けるしかないのだろう。

わたしはあなたではない。あなたのことは完全にはわからない。しかし、たとえわからなくてもあなたが大切にしていることを尊重しようとは思っている。そうした態度で臨み、行動をし続けるしか結局道はないように思う。

終わりに

書きたくないことを書いた。いまわたしにできていることが行動規範を(半ばハックして)守っているだけだという自分が情けないと思ってこれを書いた。わたしはマジョリティだとかマイノリティだとか関係なく、参加したい人が自由にコミュニティに参加できることを望んでいる。

わたしは頑張って理性的な判断をして、多様性が善であると言い聞かせている。わたしはマイノリティを排斥する方向に動きがちな自分の思考を自覚し続けている。しかし、行動を伴わせることが全くできていない。

さて、どうすればいいのやら。

まとめようとしてもまとめられないから、最後にジェンダーフリーなラブソングでも置いておこうと思う。

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旅行した

気がついたら、11月も折り返していた。11月は30日しかない。30日以下の日数しかないの月は2、4、6、9、11月で語呂合わせで「西向く侍(にしむくさむらい)」と覚えるのだそうだ。なぜ11月のことを侍と呼ぶのかは、昔親父が解説していた気がするけど全く思い出せない。でもどうせググればわかることなんだと思う。ググる気はない。

調べればたいていのことにもっともらしい答えがついてしまう1から、最近は調べればわかるなと思ったあと調べないことが多い。こういうことひとつひとつがその人を博識にしたりするんじゃないかと思っていた時期もあったけど、今はそんな風には思わない。そんな枝葉末節の知識で、人の凄みなんて変わらない。

ここのトコロ、情報量が多い日々を過ごしている。とても迷っているし、いくつかのイベントがあったし、いくつかのものを買ったし、OSS活動をしようと思っていた時期もあった気がするし、今日はゲームをクリアした。

暗い話をする理由もないので、明るいことを書こうと思う。

北海道に行った

北海道に行ってきた。Zepp SapporoのTHE ORAL CIGARETTES[ALEXANDROS]の対バンをみるために行った。札幌である。辺境の地には行っていない。

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あまりにも素敵な夜だった。

もともと、わたしはTHE ORAL CIGARETTESのファンというわけでもALEXANDROSのファンというわけでもないんだけど、2019年7月12日のZepp Tokyoでの凛として時雨2との対バンに行ってきて、そこでのパフォーマンスにかなり強く心を動かされた。それでせっかくだしオーラル主役のツアー行きたいなーと思っていたら、飛び込んできた情報が[ALEXANDROS]との対バンだったわけだ。

行くしかない。

ということで早速アルバム先行抽選に応募し、見事チケットを手に入れたわけだ。

本当に良い夜だった。なんだろう、ライブで思ったこととかを言葉にするのって何を言っても陳腐になる気がしてあまり文章におこす気になれない。ただ、旅費宿泊費有給休暇チケット代そのほかもろもろを消費してでも、行ってよかったと思う。

仮に全く同じ曲目であっても、やっぱりライブってある意味ナマモノだから同じものは二度と行われないし、観客で変わったりするし。ましてやこの対バンはもう死ぬまで見られないかもしれないと思ったら、行ける可能性があるなら賭けようと思ったし、それで賭けて抽選当たったし。

言葉がまとまらないけれど、僕はこのライブに行けて本当に嬉しかった。

ところで、僕が行ったライブは水曜日だったんだけど、札幌は木曜日から嵐のライブだった。札幌ドームで。

嵐がライブをやると朝日新聞がニュースにする。

www.asahi.com

というわけで嵐の経済効果を目の当たりにした。新千歳空港には「嵐ファンの皆様、北海道へようこそ」っていう看板を出している店があったし、地下鉄には嵐のトートバッグを持っている人がたくさんいるし、家電量販店歩いてても百貨店歩いててもコインロッカーの周りにも居るわ居るわ嵐ファン。金曜も休みとって札幌観光しようかと思ったけど、ホテル二ヶ月前時点でももう取れなくて、早々に諦めて1泊2日にしたんでした。

おわりに

札幌にいってもタピオカミルクティーとPayPay使えます!ののぼりとその他いろいろはよく見たので、結局は日本なんだよな〜と思った。

旅行行ったけど時間なかったのもあって、ビールとパンケーキとオムライスくらいしか堪能できたものがない。あと靴下屋で靴下を買った。何してんだ俺。


  1. もちろん、それが正しい保証なんてどこにもない。

  2. このブログをよく読んでいる人はご存知だと思うけど、わたしは凛として時雨のファンである。

全ては現実逃避

宇多田ヒカルのライブ映像を見ながら、この記事を書いている。

www.netflix.com

気温が下がってくると悩みが増える気がする。

いろいろなことが見え始めて、いろいろなことが狂い始めてくる。夏までは新しいことにチャレンジしようと思っていたはずなのに、もはやそんな気持ちはめっきり消え失せて、目の前の餌に釣られそうになったり、短絡的な思考ばかりしているような気がする。

そんな中で、ボーッと PSYCHO-PASS 3 をとりあえず見た。

なんとなく、今年はアニメにハマることはないんだろうなと思っている。去年は「やがて君になる」の話しかしていなかった。今年も何かにハマれば、このどこか薄暗い世界ももう少しマシに見えるんじゃないかと思う。

そもそもここ最近見ているもの、読んでいるものはとても味気ない。味気ないというとあれだが、ビジネス書か技術書かノンフィクションしか読んでいない。結局一番おもしろいのは現実なんだっていうと、俺もリア充になれるんじゃないかって気がする。いや、ウソそんな気はしない。

OSS活動

悩みから気を紛らわそうと、少し気になっているツールの開発の手伝いをしていた。まだマージされていないけれど。

github.com

いずれどこかでこのツール自体の紹介をしたいと思っているが、ぶっちゃけわたし自身もまだ全然全容を把握できていない。しかし、わたしはこのツールが Python のパッケージ管理から何かしらの示唆を得られるんじゃないかと期待している。だからしばらくは注視し続けるつもりだし、理解してきたらツールの紹介を書きたいと思っている。

ただなんかわたしのマシン上ではいろいろ頑張らないと動かなくて、原因がよくわかっていない。そのへんもなんとかしないと、ちょっとまだ紹介するためにどんなツールなのかを使うために色々と頑張る必要がある。あと Windows 対応はあんまりできていない様子だ。

どうでもいいけど、Teratail の質問に答えても PR を出しても誰にも何のリアクションももらえなくて、なんか世界から見放されたんじゃないかって気持ちになっていたけど、リアクションが返ってきて世界から見放されたわけではなかったということがわかった。だから今日も僕は安心してなんのリアクションも返ってこなくても、ブログを書くことができる。

仕事かプライベートか

仕事かプライベートか、という二項対立に違和感がある。そもそも、プライベート≒恋愛かまたは結婚生活みたいな前提があるのもよくわからない。

仕事というのは言うほどプライベートの反対、すなわち公的なものなのだろうか。会社員は仕事中所属している会社の人間として生きているから、確かに私人ではないのかもしれないけれど、とはいえそれが公のものなのかというとそうでもないと思う。よっぽど OSS 活動のほうが公的である、私人としてやっていたとしても。

そして仕事の充実が恋愛などの充実の二者択一みたいな価値観もよくわからない。確かに時間は有限で、残念ながらどれほどのお金を得たとしても時間を得ることはない。だから両立とかとてもじゃないけど難しいというなら理解できる。でもどちらかを得るためにはどちらかを捨てないといけないなんてわけでもないんじゃないのかと思う。

でもなんか、自分も仕事が忙しかったり、仕事について悩みが多いときはあらゆる人間関係を放棄しがちで、上に書いたこと自分は全然実践できていないやと思ってしまった。ていうか基本的にいつも人間関係は放棄しがちなんだけど。

そんなこんなで、そもそも僕が恋愛や結婚をするべきなのかどうかについては結局ずっと答えが出ないままだ。いつまでも答えが出ない。なんてやっていたらまた秋になって考える気を失くした。

そんな誰も求めていない人生の進捗を書き連ねる2019年の秋。

スケールは違えど

風邪をひいた。厄介な風邪だ。症状が重くない割に治りが悪いし、体温もそう上がらない。

体調不良を理由に全てを投げ捨て、ゲームをやったり YouTube や Netflix をみてこの休日を過ごしていた。たぶん明日出勤して風邪の症状が悪化するから、明後日も祝日だけど寝潰すんだろう。

それより先のことは、あまり考えたくない。

天才の頭の中 <ビル・ゲイツを解読する>

Netflix のドキュメンタリーをみていた。Netflix のドキュメンタリーは興味深いものがある。いつか、「殺人犯の視聴率」を見たことをこのブログにも書いた気がする。

blog.515hikaru.net

Netflix にわざわざお金を払っているのは他にもなく Netflix のオリジナルコンテンツが面白いと思っているからだ。別にテレビドラマや映画をみたいわけではない。かといってそんなに見てないので、元が取れているのかというと取れていない気もする。Apple TV+ も覗くくらいはするだろうけど、さすがに Netflix とはお金のかけかたが文字通りケタ違いらしいので、そこまで期待していない。お金だけで全てを測ることはできないが、お金は大事だ。特に動画制作なんて、どんな壮大な企画もお金がなければ汎用なコンテンツに成り下がってしまう。お金がないなら、お金がないなりの戦い方をしないといけないんだろう。たぶん。

話が思いっきりそれたが、ビル・ゲイツのドキュメンタリーを見ていた。

www.netflix.com

エピソードは3つ。発展途上国のトイレの話、ポリオという感染症の撲滅の話、エネルギー問題の話だ。その随所にビル・ゲイツの半生や Microsoft のエピソードが散りばめられている。

原子力発電に対して過去に起きた事故1に向き合いつつも、気候変動への対処(温室効果ガス削減)は無視できないとし、安全な原子力発電の実証のために動くエピソード3は、まさかの政治的な幕切れに一旦頓挫する。事実は小説より奇なりとはこのことか。

ウォーレン・バフェット氏とビル・ゲイツがハンバーガーを食べるシーンが、特に何も面白くもないのに印象に残っている。ハンバーガーに塩をたくさんふって食べるのが好きだということに6歳のときに気づいたバフェット氏は、それ以降食を探求する手間が省けたと言っていた。なんかそれが妙に面白かった。

世界を最適化するために

漠然とお金持ちになればよりよい暮らしが待っているのだろうと思っている。そしてある程度まで、それは事実なんだろう。実際わたしの収入は右肩上がりで(自慢するほどの収入ではないが)、暮らしは毎年毎年良くなっていると感じる。

さて、そんなわたしが例えば数千万円、あるいは数億円というお金を手にしたとき何をするだろうと思う。しかし、シミュレーションがうまくできない。少なくとも、恐れ多くて自分のために使おうなどとは思わない気がする。とはいえ、何を目的にして誰のためにお金を使えば良いのかも難しい。無駄なことには使えない。社会をより良くするためにお金を使いたい。

ゲイツ氏はドキュメンタリーの中で「慈善事業はなんのためにやっているのか」と尋ねられると、こう答える。

「最適化だよ」

最適化という言葉が飛び出てきたとき、ああプログラマーだと思った。コードは書かないかもしれないが、ここで最適化という答えが当然のように出てくるのがプログラマーなのだ。

世界を最適化する。人類の抱える課題を解決する。スケールは違えど、結局人が投資する先は同じなのだ。今かかっているコストを削減するため、今抱えている問題を解決するため。人が資源を使う先は結局それしかないんだろう。

スケールは違えど同じ人

わたしは前の会社の経営者がコンビニのコーヒーを飲んでいるのを見たとき、「あぁ、この人もこんなコーヒーを飲むんだ」と思った記憶がある。

ゲイツ氏でもスケールは違うが、結局はただの人だ。天才ではあっても、大金持ちであっても、究極ただの人だ。銃で撃てば死ぬんだろうし、笑うし泣くし、考え事をするときは歩くのだ。

スケールは違えど、やっていることはあまり変わっていない。わたしはわたしのスケールで、今は仕事2をしよう。そんなことを思うドキュメンタリーだった。


  1. そこには福島第一原子力発電所のものも当然含まれる。正直な話、わたしは初めてこのドキュメンタリーで事故の詳細や、事故を引き起こすにいたった “設計のマズさ” を知った。太平洋の向こう側に居た人間たちのほうが問題に真摯に向き合っていたのかと、わたしは恥ずかしく思った。

  2. お金を稼ぐためのものとは限らない。

VSCodeはすごい

久しぶりにテキストエディタの話をする。しかし、設定の話ではない。

VSCode はすごい。マジで

VSCodeはすごい。その思いが日々強くなっている。

code.visualstudio.com

Language Server Protocol へ準拠していればどんな Language Server も使える1し、拡張機能のリコメンド機能があるのでとりあえず Yes と答えておけばそれっぽい開発環境はあっさり手に入る。言語によっては Microsoft 謹製の Language Server がほとんど何の設定もなしにそれなりに補完してくれる。

VSCode は数年前までは正直そこまで知られているエディタではなかったと記憶している。しかし着実に支持を増やし、リリースされるたびに便利になっていった。わたしは Python を書くので Python のことしか書けないが、いつの間にかクリックで仮想環境を選べるようになり、いつの間にか Linter, Formatter の対応範囲が増え、いつの間にか Pipenv, Poetry などの新興ツールにも対応していた2

開発環境構築の難しさの徹底した隠蔽

VSCode のアドバンテージは徹底的にユーザー(開発者)が開発環境構築を簡単にできるようにしていることが筆頭にあると思う。

ユーザーは Language Server の存在を意識することはないし、別途 Language Server をインストールする必要がある言語でもインストールから起動までワンクリックで実現できてしまう。例えば Rust がそうだ。.rs ファイルを開けばなんかダイアログが出てなにかを聞いてくるので、Yes と答えてしばらく待つと開発環境ができあがる。実際には cargo install rls に相当する処理が裏で走っていて、Rust Language Server と VSCode の連携までが自動で行われる(のだと思う。ちゃんと調べてない)。ユーザーに必要なアクションは1回のクリックだけだ3

パッケージもクリックでインストール/アンインストールができるし、プロジェクトの管理も容易だ。設定も JSON の直編集からセッティング画面へと最近変わってよりユーザーフレンドリーになったし、個人の設定をプロジェクトの設定でオーバーライドもできるし、ワークスペースを定義することもできる。とにかく非の打ち所がない。

Language Server Protocol

LSP を使わない場合、補完のためのプラグインとフォーマットのためのプラグインと Lint のためのプラグインをインストールして、設定してというのを言語ごとにやっていた。今考えるとなぜそんな面倒なことをと思うが、少なくともわたしはやっていた。LSP のおかげで必要なのは LSP クライアントをエディタに導入することと、LSP に準拠している Language Server を準備するだけになった。LSP を制定したのは Microsoft だし、その契機になったのは VSCode だ。

VSCode は素晴らしいテキストエディタである。単なる新興エディタとしてだけでなく、Vim や Emacs といったコアなユーザーが多いエディタにも多大な影響をもたらした4

VSCode は素晴らしいが...

さて、VSCode は素晴らしいということはもう書いた。わたし自身しばらく VSCode を使うだろう。

一方で、わたしには一抹の不安・寂しさに近い気持ちがある。自分に対して、本当にこれでいいのだっけかという気持ちがある。さすがに LSP に準拠していく流れに逆行する必要はないにしても、さらに VSCode という便利なものを便利に使って、仕事が楽にできてハッピーだね、そんな世界をわたしが望んでいたのだろうか。

わかっている。おそらく多くの開発者は開発環境の構築なんぞに煩わされたくないと思っているのだろう。わたしも一時期確かにそう思っていたし、だからこそ今 VSCode を選んでいる。でも実際に開発環境の構築に煩わされなくなった今、自分が手にしているのは何だろう。幸せになったのだろうか。開発環境の構築に煩わされなくなった時間で、Twitter をみる時間が増えただけじゃないのか。

いつしか Vim プラグインや Emacs パッケージの動向を追うのも忘れてしまった。拡張機能を積極的に調べることはなくリコメンドされたものしか使っていない。自分は確実に楽に開発環境を構築することにかまけて、その周辺技術の追求や探求を忘却して過ごしている。

わたしに OSS を教えた、わたしに色んな言語のビルド方法やランタイムを教えた、わたしに開発に関わる本当に数え切れないほどの色々を教えてくれたのはテキストエディタだった。なのに、わたしはテキストエディタから何も学ばなくなってしまった。

何度でも言う。VSCode は素晴らしい。

ただ、その素晴らしい VSCode をただ使っているだけのわたしは、どんどんコモディティ化された開発者へと堕ちていっている気がする。


  1. たぶん。自分でやったことはないけど、例えばPythonで実装されている python-language-server が VSCode 上で動いているスクショは見たことある。

  2. 厳密には VSCode の機能ではなく VSCode の Python 拡張の機能かもしれないが、あまり明確に区別をつけていない。これは筆者が調査をサボっているだけだ。

  3. 事前に cargo コマンドなどを使えるようにしておく必要は流石にあると思うが、この詳細も調査していない。

  4. vim-lsplsp-modeの存在。

求 平和

久しぶりに、何もない夜だったような気がする。飲み会も、イベントも、友人と会うこともない、孤独な時間。とても大切な時間。

そんな時間に、コーヒーを飲んでいる。あたたかい飲み物が恋しいと思う程度には涼しくなった。10月なのに暑いと思っているが、もしかしたら毎年10月は暑かったのではと思い直し始めている。

ライブ

1週間足らずで2回ライブに行った。

tkofficial.jp

yabaitshirtsyasan.com

TKとヤバイTシャツ屋さんの両方好きな人めっちゃ少ないんじゃないかとなんとなく思っている。ちなみにヤバイTシャツ屋さんとOfficial髭男dismの両方好きな人のほうがもっと少ないと思う。なんの根拠もない個人の意見です。

これまでも音楽についてはこのブログで何度かどうでもいいことを語っていた気がするので、もう語らない。僕ももう大人なので。

充電中

さてライブに行ったは良いものの、自分の中身が空っぽであるという感覚は未だに拭えない。

とりあえずこうしてなんとか文章らしきものを書いているけれど、何も自分が良いと思っている文章なんて書けてやしない。それどころか、バズってたツイートの宣伝にあった、なろうBL小説をずっと読んで今夜を過ごしていた。世の中そんなもんだ(なにが?)。

本当は何かをアウトプットするんじゃなくて、何かをインプットするタイミングなんだろうな。とはいえ、別にインプットも何もやる気になっていない。

何をすればいいんだろうな。ていうか、どうすれば何かができるようになるんだろうか。見ようと思っているNetflixのドキュメンタリーも、やろうと思っている勉強も、読もうと思っている本もなにひとつやってない。ついでに言うと食事も面倒くさいこの頃。

正直、この感じ、嫌な予感がしている。去年と同じ心境だ。橋の上でぬるくなった缶コーヒーを飲みながら、[ALEXANDROS]を聴いていたときを思い出す。

blog.515hikaru.net

今年の秋は平和に過ごしたい。できれば。

何者でもいられなかった

暑くはなくなったが、寒くもない。

夜にあたたかい飲み物を飲むと、つかの間の安心を得ることができる。だから、ブレンディのノンカフェインのカフェオレを飲もうとしている。

名状しがたい何か、あるいは僕

僕は何者なんだろう。昔からそう思っていた。僕は何者かになりたかった。オタクでも陰キャラでも野球少年でもなんでもいいから、僕にレッテルを貼ってほしかった。

でもどんなレッテルも、結局しっくりこなかった。人間は結局だいたいおんなじような生き方を選んで、同じような死に方をするのだと思っている。自分もありふれた生き方がしたいと思っている。ずっとそう思っている。

なのにどこに行ってもなにをしても、僕は何者にもなれないと思い知らされるばかりだった。会社員にこそなったし、ITエンジニアにもなったけど、結局自分は何者なのか未だによくわからない。Webエンジニアでも機械学習エンジニアでもデータサイエンティストでもITコンサルタントでもない、何かであり続けている。仕事以外でも、アニメオタクにもなれず、映画オタクにもなれず、邦ロックオタクにもなれず、中途半端で宙ぶらりんだ。

自分にラベルが付けば、安心していられると思っていた。そしてそのステレオタイプ通りの生き方をすれば、楽に生きられるんだって、そうやって生きていきたいって、なんなら今でも思っている。東大生が官僚になるとか、いい大学出たんだから大企業に入って安定収入と福利厚生の加護を受けよとか、SIerで働くんだからExcelの扱い得意でしょとか。なんでもいい。レッテルを貼られて、安心したい。そのレッテル通りの生き方がしたい。

なのに、ひとつもできていない。

自分が自分であり続けなければならないということに疲れる。そもそもそんなことはスーパースターのすることで、僕みたいな一般人が考えることじゃない。でも僕は何をどうあがいても、最後には他に形容しようのない僕という存在に戻ってしまう。

自分が自分以外の意思の通りに動かせたら、もっとずっと楽に生きられるのに。

何者にもなれない

なぜレッテルを貼られたいのかというと、結局マジョリティになりたいのだと思う。自分は多数派であるという安心感がほしい。安心がほしいのではない、安心感がほしい。

自分はフツーの人間であるとか、自分が思うことは相手も思っているんだとか、そんな感覚がほしい。そもそも願って手に入るものではないということがわかるのに25年くらいかかったけど。

自分は何かになれると思っていた。そのレッテルを貼られた人間、それこそ仕事ができない人とかそんなんでもいい。とにかく何かレッテル通りに動けば、"普通"に近づけると思っていた。でも"普通"にちかづくどころか僕が目指していたものはそもそも存在しない、ということがやっと最近わかった。自分は自分でしかない、自分は何者にもなれない。あなたは、あなたにしかなれない1

でも、「みんなといっしょがいい」ってナイーブに未だに思い続けてもいる。最近は積立ニーサの広告とかみるたびに思う。

等身大の僕

自分は自分であり続けなければならないことは変わらない。僕はスーパースターではないことを自覚しつつ、でもただのマジョリティでもない、レッテルが貼られた存在でもない、中途半端な存在で居続けなければならない。それがとても苦しいと思っている。

でも、そうやって生きるしかない。

当たり前だけど僕は僕でしかない、そして私以外私じゃない。スーパースターではないけれど、他に代わりが居るわけでもない。

これからも僕は心に響く映画を観たら感想を書くし、たまにはアニメもみるし、IT技術者としてなにかを発信もするし、生きながら考えたことを書き連ねるだろうし、ライブハウスに足を運ぶだろう。

それが結局、僕が僕であるということなのだから。僕は僕でしかいられないのだから。

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やがて君になる(6) (電撃コミックスNEXT)

やがて君になる(6) (電撃コミックスNEXT)


  1. 『やがて君になる』 6巻より。