Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

世間知らずになりたい

Twitter との付き合い方

ここんとこあまり Twitter でも呟いていいないし、ブログも書いていなかった。なんとか重い腰を上げて再開しようと試みている。理由はわかりきっていて、会社の Confluence に毎日日記(日報でない)をつけていて、それをしているとプライベートでも文章を書こうなどという気にならないのだ。ちなみに日記の内容は業務について考えたこととかしたことの記録とか実装方針を考えた内容とか(つまりコードやPRやIssueの形にはならないけど考えたことの記録)。まぁ公開できる内容のときもあるけどほとんど業務に関することだから書けないね(もちろん書く気もないけど)。

そして書かなくなったのと同じく、あまり Twitter を見なくなった。このあまりというのは頻度ではなく見る範囲だ。アクセスしていないわけではないが、意図的に見える範囲をしぼっている。

Tweetdeck では50人くらいを突っ込んだリストを作って、タイムラインは表示せずそのリストしか見ないことにしている。Twitter Web やモバイルアプリではサブ垢ばかりみている(サブ垢だけ見てて、@515hikaruからつぶやくことはある)。

感染症以前*1からそうだったが、人の悪意、商材の広告(エンタメならまだいいが、情報商材とか、誰かや何かを否定して儲けている人とか)、皮肉と悪口の区別もつかないツイート、理性的でない他者の否定などなどなどであふれ、ツイッターのタイムラインは人のネガティブな感情のるつぼと化している。そこに感染症がとどめを刺して、さすがに目も当てられない状態になってしまった。そこで見る範囲を狭めてみたのが経緯だ。

SNS 疲れとはこういうことなのかもしれない。疲れてまでやるものではないので、自分の好きにやっている。このブログも強制されて読んでいる人は居ないだろうし、お互い様だ。

SNS 離れ ≒ 世間離れ

おかげで世間知らずは加速して、この間母親に電話したら「とうとう県境をまたいだ移動もOKになったよ」と言われた。そうなんですね。別にほとんど出歩いていないからいいんだけど。

確かに情報源のほとんどが SNS だったと今更ながらに思い知らされている。とはいえもう一度 Twitter の見える範囲を広げたいとはまだ思えないし、他の SNS も別に面白くはない。Facebook は仕事と広告とおっさんの憂さ晴らししか流れてこないから似たようなものだ。たまに「あぁあの人仕事やめたんだ」とか思うけど、それくらい。よっぽど Instagram のほうが見ていて不快感がない。みんな Instagram をやろう。だけど Instagram はあまり世間のことが流れてこない。それもそうか。それに5日に1回くらいしか見てない。

スマートニュースとか NewsPicks とかはてなブックマークとかいろいろあるけれど、ああいうのもどうせ芸能人の不倫とか見たくない話題のほうが目立つし、世間知らずのままでいいんじゃないかという気さえしてくる。今の所ニュースのリコメンドで一番精度が良いのは Google のやつで、iOS の言語設定を英語にしたら英語の技術記事がいっぱい出てくるようになった。ま、あまり見てないんだけど。

世間知らずでいよう

開き直りなんだけど、別に世間なんて知らなくても生きていけるんだよな。そもそも世間知らずって何が問題なんだっけと考えると言うほど問題でもない。そういや大学時代は総理大臣が誰か知らないなんて人周りにいっぱい居たし、知らなくたって死ぬことはない。たぶんそういう人よりは僕のほうが世間を知っている気がするけど、そもそも世間を知っているってなんだ。世間なんてそう簡単に「知れる」ものか?

所詮、誰かが盲信している世間とかなんて一般人向けのニュースを知っているか知らないか程度の話だと思うし、ニュースなんてコンテンツの一種に過ぎないのだ。最近民放各局が朝から晩まで休まずワイドショーをやっているらしいけど、それもコンテンツとして優秀だから(そのほうが視聴率が取れるから)というだけに過ぎないはずなんだよな。

だから世間を知っているとか知らないとかいうたわごとに付き合わされて疲弊している理由もまた存在しない。じゃあ世間知らずのままでいいか、などと思うなどしている。そのほうが多分平和に暮らせる。僕の望みは平和に暮らすこと。

*1:おそらくポストコロナとかウィズコロナとかいう標語に合わせればプレコロナなんだろう。