
32歳のいま、人生を振り返ろうと思った。
2025年、夏真っ盛り。ボールペンを持って付箋に向かって、自分の人生をどう振り返るか?というアイデアを練っていた。
なにかをやめたとき、なにかが始まった
自分の人生をどう振り返ろうかと考えた時、ひとつの視点が浮かんだ。
「なにかをやめたとき、なにかが始まったのではないか?」
人生で3回、僕はある決心をした。それは、ずっと大事にしていたなにかをやめるというものだ。それをやめると連鎖的にすべての行動が変わってしまうほど、時間をかけてきたものを。
僕はそのたび、壊れた構造を立て直して安定を作りなおしてきた。しかしその安定がなんらかの拍子にまた壊れ始め、また改めてすべてを構築しなおすことになる。
この経験をベースに、僕の人生を振り返ろうと思う。
1回目は15歳のとき、2回目は23歳のとき、そして最後は30歳のときだ。
ただ隣の市の高校に行っただけのことが、学問に邁進するきっかけとなった。
学問ではなにもなせないと悟った結果、技術を始めてIT技術者として生きていくことになった。
最後に、技術だけじゃダメだと悟った僕がなにをして、これからなにをしようとしているのか。
たぶん、少し長い記事になる。お時間のあるときにお読みいただければ幸いだ。
15歳 - 「地元で生きる」をやめ、学問に夢中だった日々
高校入試という岐路 - 地元を離れたきっかけ
つまらないイベントが人生を変えるきっかけとなる
中学3年生のときのこと。春とも言えず、夏というには少し早い時期。僕は体育館にいた。僕が通っていた市立中学校の3年生全員がそこにいた。
その日は近隣の高校の校長先生がやってきて、自分たちの高校をプレゼンするというイベントの日だった。正確な名前はよく覚えていないが、進学説明会のような名前だった気がする。
プレゼンと言えば聞こえはいいが、要は何人もの校長先生のお話を体育館で聞くだけのつまらない時間だった。
僕は真面目に話など聞かず、ただぼーっとしていた。いつも通り、僕はどこにでもいる中学生だった。
この日、僕の人生が変わる可能性なんてこれっぽっちも見出してなかった。
地域のビッグイベントとしての高校入試
僕の地元は愛知県の田舎だ。固有名詞を出しても伝わらないと思うので、名古屋じゃないほうくらいに思ってもらえればいい。
僕の地元では公立高校の入試は大きなイベントだ。多くの地方でそうなのかもしれないが、愛知県もかなり地域の関心が高い。
誰それの子どもがどこの高校に入ったかで、その子の成績がだいたいわかる。つまりその子がどれだけ頑張ったのか、優秀なのかというコンセンサスを地域で取るイベントだ。
例えば学年トップだったら県立高校の中でもトップ校を第一志望にする。その高校は東京大学や京都大学の現役合格者が毎年出るような高校だ。
しかし、トップ校は僕が住んでいた市にはなく、隣の市にある。長距離の自転車通学か、電車通学を選択することになる。だから通学が大変で行きたくないという人もいる。
次点では、少しトップ校より成績では劣る高校が選ばれやすい。自転車で30分以内で通学でき、かつ成績も良いのでよく選ばれる。学年トップとまで言わないが、成績のトップ3割くらいがだいたいこの辺の高校に入学する。
進学実績的には、数年に1回くらい東大か京大の合格者が出るくらい。毎年、地元の旧帝大である名古屋大学の合格者も出るが、20人前後といったところだ。
その次のランクも、そのまた次のランクの高校も僕が住んでいた市にある。だから、わざわざ遠い高校を受験する人はほとんどいない。市内の高校に通おうと受験する人がほとんどだ。
例外があるとすれば滑り止めに私立の高校を受けに行く程度だ。
公立高校で東京大学へ進学したい人から高卒で就職する人までカバーされるから、当時私立を希望する人はほとんどいなかった。
「ここに入学する気がする」
子どもとはいえ、自分の置かれている現実はよくわかっているものだ。
中学校3年生のときの僕の成績だったら、順当にいけばこれくらいの市内の高校に入れるだろうというのは既にあった。そしてトップ校には例え逆立ちしても入れないこともわかっていた。
成績を上げることには興味がなかったし、なんなら大学に行きたいとも思っていなかった。工業高校とか入って就職するのかもしれないとか、適当な高校入って適当な大学行くんだろうなくらいに思っていた。なにもかも思っているだけで、一切行動に移さなかった。
とにかく将来を真面目に考えていなかった。
未来のことなんて、どうでもよかった。
その校長が喋り始めた時、僕はいままでの人と違って聞きがいがあるなと察した。話し方が洗練されているように感じたのだ。
その校長はたしか、自由にまつわる話をしていた。内容は覚えていない。
面白そうだと思った。その校長の話を聞いた後、僕はその高校について調べることにした。
その高校を仮にA高校としよう。
そのときはA高校の場所は知らなかった。調べてみると、家から自転車で行くと片道1時間以上かかる場所にあるとわかった。電車でも、家を出てから40-50分くらいかかる。電車も15分に1本しかこないので、タイミングが悪いともっと時間がかかる。
しかも、自分が住んでいる市よりも田舎と言われるような市にある高校だった。毎年、僕の中学からはほとんど誰も行かない。変わった選択肢だった。
それでも、僕は行ってみたくなった。体験入学の機会があり、実際に現地に行った。
その体験入学でなにがあったのかよく覚えていない。でも帰り道に僕は「ここに入学する」気がした。呼ばれているとか、導かれていると思った。親にもそう言った。
いまならわかるが、ただの勘違いである。しかし、僕は人生で初めて直感で意思決定をした。
真面目に勉強したことなど一度もなかったが、僕は勉強することにした。高校入試を頑張ろうと対策なるものを始めた。
2008年の夏。リーマンショックが起きる直前だった。
努力して結果を出した成功体験
高校入試のためにどんな勉強をしたのかはよく覚えていない。
2つの高校を受験する都合、2回テストを受ける。その2回とも国社数理英の5教科で配点も同じ。また内申点という通知表の点数も成績に含まれていた。
僕は授業態度が良いわけではなかったので、通知表の点数(内申点)は普通だったと記憶している。良い方ではない。中1くらいで一回美術で2をとったこともある(いまも絵を描くのは苦手だ)。
ただ入試に影響することは先生も知っているので、あんまり中3の学年末の成績で悪い点数を先生もつけられない。特に問題がなければ3にしてくれたり、4にまけたりしてくれた。それもあってか、中3の最後が一番内申点が高かった。
といっても、条件は皆同じだ。程度の差はあれ、僕だけが有利になっているわけではない。一般入試で点数を稼がないと落ちる感覚はあった。
過去問を解いたり、いろいろ覚えなおしたりと頑張った。
その結果、無事合格した。
人生の中でも大きめの、自分が努力したら結果が出るのだという成功体験だった。
「遠い」場所に進学した
さて。いま、32歳の自分がこのときのことを振り返る。
僕はこのとき、いまになってわかる大きな決断をしていた。「地元で生きる」ことをやめたのだ。
かの地では、地元に生きることが奨励される。隣近所の市で高校や大学時代を過ごして、あの地域で就職をする。それがもっとも評価される生き方だ。
それは当然のことで、地域からすればその場に残らない人は関係ないやつである。
どこに行こうが、その地にいないのであれば東京にいようが大阪にいようがニューヨークにいようが関係ない。自分たちの関係者かどうか、いわば仲間かどうかがすべてだ。
どんな子どもなのかというコンセンサスは行った高校で決まり、大学ではない。大学入試では東京大学に行こうが、京都大学に行こうが「ここを出て行った人」であり評価されない。愛知教育大学に行ってかの地で教員にでもなって「ここに残る人」のほうが評価される。
かの地に住んでいる人は電車で30分ほど乗れば都市である名古屋にいけるが、仮に用事があったとしても行きたがらない。「名古屋は遠い」というメンタルで生きている。
遠い、というのは物理的な距離や不便さをさして言っているのではない。心理的な距離が遠いのだ。つまり、勝手知ったる地元と狭く濃い結びつきがあるのに、そこからかけ離れた名古屋という場所は遠いのだ。
そして、いま思えば僕は、「ここ」ではあったが「遠い」高校にいった。このときから、僕は帰る場所をなくし始めていた。
高校時代 - 成績だけが拠り所
勉強以外できなかった高校時代
そして高校に入学してからのことだが、あまりうまく語れない。
結論だけを言うと、僕は僕を「成績」でしか保てなくなった。勉強とか、学問とか、知的好奇心とかと言い換えてもいいかもしれない。
入学してからの僕は、本当にいろいろなことがあった。言えないことの方が多い。
地元という拠り所をなくし、人間関係の大部分を失った。新たに構築した人間関係もことごとくうまくいかなかった。親との関係までも悪化した。僕はどんどん孤独になっていった。
その本当にいろいろなことを抱えながら、それでも自分を生かせてくれたのは、親でも先生でも高校の同級生でもなんでもなく、学問そのものや勉強そのものの面白さだった。
僕にとっては学問だけが自分を自由にする唯一の方法だった。
そんなことをしているから、成績だけはよかった。宿題もロクにやってなかったが、これがなぜだか悪い成績はとらない。教師も宿題をやっていないことは事実なのにテストで悪い点数はとらない(どころか良い成績をとる)からか咎めづらそうだった。
もちろん、高校生っぽい楽しいこともあった。カラオケで盛り上がったり、ファミレスで勉強したり、恋愛のイベントとかもあった。
それでも、あの頃は死にたいと思うほど苦しかった。
戦略的に戦った大学受験
受験勉強は相対的に楽しかった。やれば結果が出せるからだ。
僕は当時、G戦士といういまっぽくいうと大学受験インフルエンサーみたいな人の情報サイトを読んでいた。
「自分が受験する前年の過去問は真っ先にやれ。まずはゴールを理解しろ」
「ひとつの参考書を何度も繰り返して定着させろ」
「英単語の暗記は量で勝負だ。質ではない(忘却曲線を前提に)」
「得意教科の90点を95点にするより、苦手教科の70点を80点にするほうが効果的だ」
などといったノウハウを僕は読んでいた。正直、学校の先生よりも名前も顔も知らないインフルエンサーを信頼していた気がする。
いまでもなにかを勉強するときにはあのブログで読んだことを思い出す。とても理に適った指南が多かった。
結果として、僕は名古屋大学理学部というところに現役で合格することができた。理学部を志望したのは森博嗣の小説の影響だ。
これも最初は京都大学理学部を志望していたりとか色々あったんだが、その話はどうでもいい。今となっては。
人生でなにか本気で頑張ったことがあるとするなら、そのうちのひとつが受験勉強だと思う。
大学受験という経験を通してどう思ったかは、ここに書いてある。
大学時代 - 勉強ができなくなっていく
数学をやったり遊んだりしていた時代
名古屋大学理学部は2年生になるときに学科を選ぶ。僕は数理学科(他の大学では通常、数学科と呼ばれるもの)に入った。
理由は2つ。ひとつは数学に興味があったからというシンプルな理由。もうひとつは、卒業に必要な単位が他の学科より少なかったからだ。
数学をベースに知り合いもできた。他学部の人とも交流したし、他校の人にも会ったり本当に楽しかった。
いま振り返ると、まったく勉強の姿勢がなっていないと感じる。でも、ガキだったから学問をするということが全然わかっていなかったのだ。わかった気になっていた。
大学ではもっと遊んでおけばよかったなどとはまったく思わない。もっと勉強すればよかった。もっと学問に向き合えばよかったという後悔だけがある。
とはいえ、どうせどんな大学時代を過ごしても、何かしらで後悔したんだろう。それが大学時代というものだと、いまとなっては達観している。
大学時代の振り返りは、実は大学生のときにしている。ここではその記事のリンクを貼るだけにしたい。
- 大学生活をなんとなく振り返ってみる 〜B1編〜 - Diary over Finite Fields
- 大学生活をなんとなく振り返ってみる 〜B2編〜 - Diary over Finite Fields
- 大学生活をなんとなく振り返ってみる 〜B3編〜 - Diary over Finite Fields
大学の卒業式に出席したときは本当に嬉しかった。あとにも先にも、卒業式で嬉しかったのはこれが最初で最後だ。
あまり表立って言わないようにしているが、僕は名古屋大学に何度か寄付をしている。賛否はあるが、女性枠などで先進的な取り組みをしている母校を誇りに思う。
勉強不足が仇となる
さて。32歳の自分はもう主観的にはこのときの努力不足について諦めはついている。
しかし、客観的に見れば僕のこの勉強不足は致命的だった。なぜならば、高校時代に培った自分は勉強ができるというアイデンティティを持っていたのに、その勉強ができなくなっているからだ。
これがわかりやすくアイデンティティクライシスの呼び水となり、2016年に休学・退学をする運びになる。
僕はいま、あまり数学の話をしないようにしている。
自分自身が現在勉強していないからというのもあるが、決定的に感じているのは基礎力不足だ。
基礎といっても多方面にわたり、まず計算が遅くて不正確だ。ここでいう計算とは四則演算である。そして線形代数や微分積分などの基本を十分に理解できていない。
これらの基礎力不足を、僕は直視しなかった。認識していたけどそれが問題であると思っていなかった。ここが僕の最大の反省点である。
僕は最近、よくLv. 0という言葉を使う。Lv. 0とは自分でも自分ができていないことをわかっていない状態を指す。
大学時代の僕がまさにそれだった。とても愚かだった。
23歳 - 学問をやめ事業に使われていた時代
大学院をやめた
就職前夜
2016年の10月31日。僕は名古屋駅の近くにある映画館で、仕事を始める前夜を過ごしていた。翌日から僕は京都に行く予定だった。
とある会社の人と一度会い、お昼にパスタを食べて、そのあとにメールを送ったらじゃあ11月から来てよって軽い感じのメールが返ってきた。
本当に働けるのか?と思っていたが、なんでもよかった。
どうせ、なにも失うものなどないのだ。
その日、その年の夏に公開された映画、シン・ゴジラをもう一度みていた。僕はもう何度もみていた。何度もみた結末がまた僕の目の前で繰り返された。映画って何度見ても結果変わらないんだよなと当たり前のことを思った。
次の日、僕は新幹線で京都に向かった。涙は出なかった。不安もなかった。ただ、世界はきっとそこまで残酷じゃないだろうという感覚だけがあった。
先を考えないまま、大学院休学
さて、あまり何も考えずに大学院に入学した。高校時代に、成績がよいことだけが拠り所だった僕のメッキがここでボロボロ剥がれ落ちた。
前回書いたような基礎力が不足しているという自覚をここで初めてしたが、僕はその現実を直視できなかった。直視できなかったので、休学した。
この経緯は、ブログ記事に書いてある。
かくして、僕は8年かけて築いてきた学問をする自分を捨てた。
あっさりと捨てた。
せっかく大学院を合格したのにとか、この道を外れてどうしようとかも考えた。
それでももう、やりたくないことをやりたくなかった。よく言えば早く次の挑戦を始めたかったし、悪く言えばこの現実から逃げたかった。
プログラミングのために仕事をしていた時代
プログラミングを学び始めた学生時代
補助線として僕とプログラミングの出会いの話をしたい。
大学時代にプログラミングをやっていた。
始めは3年生でC言語の講義を受けた。やっているうちに自分に向いている気がして、その講義を受けたあとも自主的にプログラミングをしていた。
とはいっても計算機科学を専攻するような勉強とは程遠い。自分用の便利ツールを作って遊んでいただけだった。ファイル操作を簡略化したりするスクリプトを書いたとか。
開発の仕方にも気を使っていて、Gitを使ってバージョン管理をしていた。卒業レポートとかも、LaTeXの文書をバージョン管理してマクロも使ってEmacsのYaTeXとかを使って書いていた。
このような、あまりなにも考えずプログラミングをしていた経験が後に就職してから役に立つことになる。
機械学習エンジニアとして就職
さて、電撃的にある会社に入社し、しばらくして正社員になった。これも、以前に書いたことがある。
実はその会社には当時流行っていた機械学習エンジニアとして入社した。当時は当時でAIバブルだった(2025年現在もバブルである)のと、流行り始めてから歴史が浅かったために機械学習がめっちゃできる人みたいなのがそもそも市場に少なかった。
なので僕も、機械学習については1ミリも知らなかったし、Pythonもほとんど書いたことないのに機械学習エンジニアの仕事をすることになった。
ピンとこなかったビジネスパーソンの凄み
この会社でした経験にはいま振り返ると語るべきことがたくさんある。
明言するのが憚られるが、最初の1, 2ヶ月でそこそこ激しい経験をした。しかしなんやかんやで、僕は入社をすることができた。
当時の僕には響かなかったが、いまの僕の根本になっている経験をいくつもさせてもらったと振り返ると思う。
いまでも思い出すのは、その会社のトップの話だ。
その人がこんな感じのことを言っていた。記憶改変がされているかもしれないので、文責はあくまで僕にある。
- ひとつ、経営は数字で語らなければならない
- ひとつ、経営の仕事とは、結果を出すことだ
- ひとつ、経営の結果とは2種類しかない。財務諸表と時価総額(評価額)だ
- ひとつ、この2種類の結果のどちらを重視すべきかは企業のフェーズにより決まる
いま振り返れば、当然のことである。しかし会社員を曲がりなりにも8年やった僕が思うのは、これらは徹底することが死ぬほど難しいことがらでもある。この世の経営者でこれを実践していると神に誓って言える人が何%いるだろうか。
しかし、ある意味当然だが、当時の僕はその凄みがまったくわかっていなかった。なんか迫力あるな〜と思っただけである。
たしかこの話を東京駅の八重洲口付近の貸し会議室で聞いた。そのあとの懇親会の会場はプロント。僕にとっては普通の飲み会の延長だったが、なんだかわからないけど、みんなが楽しそうだった。僕にはみんなが楽しそうなことが不思議だった。
さっきの話でなんで人びとは鼓舞されたんだろう、ということが気になっていた。
プログラミングへの熱中
僕は僕で、学問の次はプログラミングに熱中していた。
仕事をするにつれて、学問をしているよりもプログラミングをしているほうが自分の感覚が生かせるのではないかと思い始めていた。
数学では自分の感覚があまり生きなかった感覚があった。
数学ではまず最初に誤りか正しいかを徹底的に問う。それはもちろん重要なのだが、そのあと正しいものの中でもさらに「良いもの」を見つけようとする。いわゆるエレガントってやつだ。つまり、正しい回答の中にもヒエラルキーがあり、より良いものを提示するほうが好まれる。
例えていうと、大学入試の数学の問題集でいう「別解2」のようなものだ。確かにその考え方で計算すると、途中式も短くあっさり解ける。しかし思いつくのは難しいもの。数学では同じ問題を解くにしても、このような解法のほうがより良いとされる。
僕はそれらの正しいものの中で、「良いもの」を感じることがあまりできなかった。正しいものを求めることは辛うじてできたが、より良いものを求める努力をしたいとは思えなかった。
しかし、プログラミングではそれができていると感じていた。与えられたコードが動くこととその後に継続的にメンテナンスしやすいかとを区別して、どちらの視点でも評価できると感じていた。
いまだに僕は自分はプログラミングに対する感覚はそこそこのものがあると自負している。設計の理屈とかはよく知らないけれど、目的を達成できてコストの低いコードを書け、というお題に答えるのが僕は得意だ。
身勝手な怒り
感覚が生かされている実感はあっても、僕はまだ物足りなかった。
自分が開発に携わったソフトウェアがなんの役にも立っていない気がしていたからだ。
その会社では受託の仕事をしていた。だから案件をこなせば売り上げは立つ。でも、会社の売り上げになってなんなんだろうと思っていた。
誰かが楽をできなければソフトウェアの価値は0である。誰かができなかったことをできるようにならなければ、ソフトウェアの価値は0である。正味0である。
こんな風に言うのは失礼だが、なぜ虚無にお金が動くのだろうかと僕は思っていた。
いまは大人になって、彼らは虚無にお金を払っているのではないと知っている。例えば、巨大な合意形成を得るための必要な投資であると認識していたり、予算の消化のための仕事があったりする。
でも当時はそんなことはわかっていなかった。
このようなことを感じていた時期に、『アジャイルサムライ』を読んだ。
この怒りは正当なものなのだと勇気をもらった気がした。プロのソフトウェアエンジニアとして一生を生きていこうと当時の僕は決意した。
いまもそのときした決意は揺らいでいない。だから僕は自分のミッションを「良いソフトウェア開発をする」と掲げている。
しかし、当時はあの本に書かれていることをよく分かった上で感動していたわけじゃなかった。『アジャイルサムライ』の真価を理解するには、しばらく時間が必要だった。
自分の力を高めるために転職
技術的な経験を広げた3社目
もう1社受託開発を経験したのち、僕はSaaSを開発している会社から内定を貰い、転職することになった。職種も、機械学習エンジニアからサーバーサイドエンジニアになった。
その会社でもいろいろな経験を積ませてもらった。
事業会社を選んだ理由はふたつある。
ひとつはシンプルに使われているソフトウェアの開発がしたかったからだ。いつユーザーが使い始めるのかわからないどころか、成就するかもわからないPoCを回すのが嫌になっていた。
もうひとつは、ソフトウェアエンジニアとしての経験を積みたかったからだ。機械学習エンジニアだったから、AWSの使い方とかフロントエンドの開発とかがほとんどできなかった。
だから積極的に開発に関わらせてもらった。AWSを使った開発、TerraformでのIaC、DBのマイグレーションやデータの移行、認証認可についてなど様々な経験をさせてもらった。
そして人事的な部分にも少し関わった。技術広報としてブログの立ち上げをやったり、採用面接に参加したりした。
経験は増えた。成果は増えたか?
一方で、いま振り返るとこの段階でまた自分のLv 0は始まっていたなと思う。
例えば、スケジュール管理ができなかった。PMとうまくコミュニケーションができなかった。プロジェクトを前に進めるスキルが低かったのだ。
しかしそうした様々な困難や課題を、困難とも課題とも認識せず過ごしていた。
大学時代と同じで、自分は愚かだった。仕事ができていないのに、仕事ができていると勘違いしていた。
だから様々なことをやらせてもらったが、技術的な経験以外が自分の血肉になった感覚がない。
それは100%僕の落ち度で、会社に落ち度はない。ビジネスパーソンとしての実力のなさと、学習意欲の低さを悔いている。
ソフトウェア開発をゼロから見直す
コロナ禍で目にした社会の停滞
入社した最初のうちは満足していた。プロダクトは実際に使われているし、自分も開発の経験どころかそれ以外の経験も積めると感じていた。
しかし、いつしか僕は停滞を感じるようになっていた。
ちょうどこの頃、コロナ禍があった。
社会が停滞している中、テック業界はむしろ躍進をしていた――株価だけは。
自宅にいる時間が増えた結果、Zoomが当たり前のコミュニケーションツールになった。ソーシャルメディアを見る時間が増えた。Netflixを見る時間も増えた。あらゆるSaaSがリモートワーク時代への対応を謳って煽った。
しかし、あとでわかるようにそれはただのバブルだった。最先端のテクノロジーはパンデミックに部分的な対抗をしたが、根本的には無力だった。
マーク・アンドリーセンは2020年のエッセイでこうアジテーションをしている(星 暁雄氏の記事から抜粋した)
交通機関もそうだ。どこに超音速旅客機がある? 数百万台の配達用ドローンはどうした? 高速鉄道は、天を走るモノレールは、ハイパーループは、そして、空飛ぶ自動車は、いったいどこにいった?
ご存知のように、2025年になってもこれらの姿かたちはない。そして、マーク・アンドリーセンがこのエッセイを公開した翌月に投資したのは音声SNSのクラブハウスだった。
コロナ禍が終わりかけていた2022年。テック銘柄は暴落した。
株価で過剰評価されていたのが、適正な評価に戻ったといえよう。イノベーションの裏付けがあったわけではないのだから、必然だった。
その年の末にChatGPTがリリースされ、ソフトウェア開発の世界も変わっていく。
絶望
この頃に僕はソフトウェアについて考える時間を得た。ステイホーム生活の中で年単位の時間をかけて、ソフトウェアにまつわる様々なニュース、業界の動向を把握し考えていった。
自分のスキルの幅は広がっているはずなのに、どんどん不自由になっていく感じがしていた。
Big Techの枠にハマって開発をさせられている気がした。AWSなしにはなにもできなくなっている気がした。
大学生のときはプログラミングそのものが刺激的だった。今のほうができることが多いのにつまらなかった。
その感覚が、現在にも連なるある大きな問いへとつながった。
「よいソフトウェア開発とはなんだろう?」
この問いをもって様々な本を読み、勉強会などに参加し、思索を深めていった。
そして僕は、様々なあまり言語化されていない常識に反する結論へとたどり着いた(これらの結論の一部は次回の更新で解説する)。
- テクノロジーもプロダクトも世界を変えていない
- ソフトウェアそれ自体で他社との差別化はできない
- ソフトウェアエンジニアは職人気質であってはならない時代になった
こうしたことに気づいたとき、僕は絶望した。自分がソフトウェアエンジニアとして世界に貢献できると思っていたのはただの勘違いだとわかったからだ。
3年以上もの時間をかけ、問いに答えを出そうとし努力した。その結果、自分自身の存在意義が揺らぎ始めた。
「エンジニア」から「ビジネスパーソンへ」
いまから振り返れば、このときの僕に徐々に起きつつあったことは価値観の転換だった。
すなわち、プログラミングやエンジニアリングという手段に重きを置く人から、事業を前に進めることに主体的に関わる人に変わらないとどうしようもない、と考えるように変わり始めた。
それはつまり、23歳で大学院を飛び出してから30歳までどっぷりと浸かってきたテクノロジー、プログラミング、エンジニアリングの視点でものごとを見る世界から飛び出すということだった。
エンジニアをやめるわけではない。しかし僕の中で主と従がはっきりと変わった。主が事業であり、従がテクノロジーになっていくのだ。
30歳 - 再構築のただなかで
30歳で退職
解けない課題、折れた心
ここで突然、歯切れが悪くなる。
僕が見たものを包み隠さずに書けば自分以外の人のことも関わる。だから、僕が観察したこと、考えたことをありのまま書かないようにしたい。
その前提で、起きたことは書けない。でも僕が出した結論だけを書くなら——僕はこの場にこれ以上いる必要がないと思った。
目の前の課題が自分に解ける気がしなかった。そのためになにを学ぶべきなのかもよくわからなかった。
ここにいて、どれほどの景色が見られるのか検討もつかなかった。このままだとただ会社にしがみつく人材になりそうな気さえしていた。
待てばなんとかなるんじゃないかという楽観的な気持ちと、最後までどうにもならないんじゃないかという諦念とが交互にやってきた。
結局、僕は退職することにした。大学院を辞めた時と同じだった。やりたくないことを、これ以上やりたくなかった。
もっと何年もいるべきだったのにやめたな、という後悔が実はいまもある。
退職する前の数ヶ月間も、大学院を休学する直前のようだった。ずっと苦しかった。
僕はそのとき、夜な夜なキング牧師の演説を見ていた。自分だけでなく家族の命をも危険に晒していると知りながら、非暴力の公民権運動をする姿を見ていた。そしてその演説を涙を流しながら見ていた。
自分は無力だと、強く感じていた。
妻との出会い
この頃に、いまの妻と会っている。
妻と付き合う前に、僕は会社をやめるといった。転職先も決まっていないと言った。
客観的に言って、今後の地位も収入もなにもかもが不確定になる男と付き合う道理はない。だから言わないのが戦略的には正しそうだが、言うのがフェアだろうと思った。
結果としては彼女は、その数週間後の僕からの交際の申し出を断るどころか、数ヶ月後にプロポーズまで受け入れた。縁とは不思議なものだ。
31歳からの初挑戦、そしてわかりやすい失敗
浅い挑戦、そして失敗
僕はまだ自分がなにをすべきか見出せていなかった。
しかしなにかの仮説は立てないと行動もできない。僕の暫定的な仮説はビジネスパーソンになろうということだ。
ふわっとしている。しかしふわっとしたこの表現より適切なものが思いついていなかった。
そして一度、失敗した検証について話そう。
2024年の3月に僕は就職したが、この就職に結果として僕は失敗した。
理由は明確だ。ビジネスをなめていたことだ。
2024年時点で、僕はまったくビジネスパーソンとしては出来損ないだったのである。
前回書いたようにスケジュール管理がうまくできないし、コミュニケーションがうまくとれない。僕はこの時点でもまだLv. 0だったのだ。
大学院のときに、自分が数学を専攻する人間としてLv. 0だと気づいたのと全く相似形だった。
仕事の仕方を学んだ
しかし同時に、もがいて悩んでいた中で僕はひとつ身につけたものがある。
仕事のやり方だ。仕事とは、以下の4つをひたすら繰り返すことだ。
- 仮説を立てる
- 行動をする
- フィードバックを得て認知を更新する
- 1に戻る
これだけだ。
ものすごくシンプルだが、仕事とは結局これしかすることがないということがわかった。そして、このループの量を増やせば増やすほど仕事は進む。
スケジュールを立てられないときにスケジュールを立てられないと愚痴ることに意味がない。スケジュールを作る仕事はこのような初動をすればいい。
- スケジュールを仮で決める(x日以内に終わるという仮説を立てる)
- それに基づいて資料を作成し、フィードバックをもらえるようにする(行動する)
- 上長にフィードバックを貰う(認知を更新する)
- フィードバック内容に応じて次の仮説を立てる
ただそれだけなのだ。そしてただそれだけなことがわかるのに仕事を始めて7, 8年かかった。
でもこれがわかったとき、やっと僕はLv. 0から脱せられたと思った。
反省と再出発の決意
自分がLv. 0だと気づかせてくれたから、本当はその会社でLv. 1にでもLv. 2にでもなるのが筋だといまも思っている。
しかし、これも諸般の事情で叶わなかった。ここでも退職を決意したのは僕である。
いつかこの退職の経緯は書きたいと思う。エピソードとして書けることは複数ある。しかし、まだこのことは僕の人生の中で意味が確定していない。あと5年くらいすればやっと、あのときの意味がわかってくるだろう。
いまの僕からでも言えることがあるとすれば、それはひとつ。大学院のときのように直視できなくて逃げたわけではない。
大学院を辞める時とは、そしてその数年前とも自分の状況が大きく変わっていた。僕には守るべきものがあった。僕には選択できる他の未来があった。
あまり時間がない中で、自分の置かれている現状認識を徹底的にした結果の意思決定だ。
そして転職活動しているうちに32歳になって、僕はまた転職した。
今度は会社が神に背かない限り、最低5年は居ようと思っている。
32歳 - いまこの時点で思うこと
時の流れが遅い
これを書いているのは2025年の8月中旬から9月上旬にかけて。残暑の季節だ。
僕が前職を離職してからやっと3ヶ月経ったところである。前職は5月末まで働いた。現職では試用期間を終えたところである。
しかし、まだ3ヶ月しか経っていないのかと思う。もう半年くらいは居た気がする。
そして、今年はまだあと4ヶ月弱残っているのも信じられない心地だ。今年は感覚的にはもう終わっていても不思議ではない。
日々考えること、やることが多く、そのすべてが充実している。充実しすぎていて、やらないことを必死で選定しないといけないほどだ。
仮説の検証ができる環境にいる
1番充実していると感じているのは、僕はいま自分で立てた仮説を自分で検証することができる環境にいることだ。
大学院をやめて就職し始めた頃。プログラミングに熱中してたあの頃は、2年目くらいでソフトウェア開発の勉強を始め、自分なりの道を探し続けていた。アジャイル開発とかに出会ったのもこの頃だ。
でもこれは人の仮説に乗っかっていただけだったといまは振り返る。
いまの僕は、自分の仮説を自分で検証している。僕はこの道は良さそうだと心の底から思っていて、その道を自分で正解にしていこうと思っている。
その覚悟が少しずつ決まりつつある気がする。
ソフトウェア開発を捉えなおす
ここで詳細は解説しないが、TOC(Theory of Constraints; 制約理論)というものに僕は今年出会い、影響を受けている。
この節では、いまの僕の思索の一部を紹介したい。
価値は使われ方で決まる
僕が数年間の思索の結果、たどり着いたのはこの結論である。
ソフトウェア開発で価値に直結するのは使われ方である。開発の仕方ではない*1。
ここで、TOCの解説書のひとつ、チェンジ・ザ・ルール! (原題:Necessary But Not Sufficient)から引用しよう。
主人公たちが提供するプロダクトは、正味必要在庫量の計算を20人で月に1回しか計算できない状況から一晩かからずできるように変えた。しかしまったく同じ機能を使い、価値を感じた顧客と価値を感じなかった顧客がいた。
それはなぜか。
「(価値を感じなかったクライアントは)我が社のシステムを導入した後でさえ、正味必要在庫量の計算を月に一回しか行わなかったからだよ」(かっこ内は筆者)
そう、機能はあっても有効な使い方をしていなかった。だから価値を感じられなかったのだ。
計算が早くなったことそれ自体に価値があるわけではないのだ。
月に1回の計算から週に1回の計算に変えれば在庫の量を最新のデータに基づいて調整できる。その結果、成功したクライアントは納期遵守率の向上や在庫の減少につなげられた。
つまり、プロダクトの機能が価値になるのではない。機能があることで、事業のオペレーションが変化し、その変化が事業のKPI/KGIの向上につながる。ここまでいって初めて価値になる。
クライアントにソフトウェアはどう使われるのか、そしてクライアントがどのような価値を出すのか。ここを起点に開発を始めない限り価値あるソフトウェア開発はできない。
これが僕のこの本からの学びだ。
言われてみると笑ってしまうほど当たり前のことなのだが、実はあまり多くの人が気づいていない、気づいても実践することが難しいのではないかと思う。
価値を提供する事業をやろう
僕は自分のいままでの経験とこの学びを経て思った。
「最初から価値を提供すればいいじゃん。わざわざプロダクトを介す意味などない」
そして僕の考えを具体化したもので、1番近い概念がBPaaSである。
この言葉は、おそらくまだ人によって定義やイメージするものが異なるくらいのふわっとした概念だ。ここで書く定義はあくまで僕の私見であるとしたい。
BPaaSは要は業務代行である。ではBPOと何が違うかというと、サービス提供者側がオペレーションを自社で構築するというサービス提供の方針だ。
つまり、エンジニアの視点では自社がオペレーションを持っていて、そのオペレーションに自社開発しているソフトウェアプロダクトを使っている環境だ。
この環境であれば、ソフトウェアは自社オペレーションで使われるので、自社オペレーションのKPI/KGIをどれだけ変えたかで価値が計測できる。
そしてクライアントが求めているものも成果なので、ソフトウェアプロダクトの開発が直接的に事業貢献になる。非常にシンプルな構造にできるのだ。
といっても、これは口で言うほど易しくない。ソフトウェアを開発する前の問題がいっぱいある。
たとえばオペレーションには人件費がどうしても一時的にはかかるので、単価がある程度ないと事業として成立しづらい。また、オペレーションの継続的な変更それ自体がまったく容易ではない。やってみて初めて見た課題が山ほどあった。
そう、理想論としてはよく見えても実行には色々な障害がある。僕が上記に書いたことは絵に描いた餅だ。現場には事業として成立させるための苦労が山ほどある。
そのような難しさは認識しつつも、僕はいまこの道に賭けている。これ以外にやりたいことがないと思うほどだ。
自分が書いたコードが即本番に入り、1週間待たずに即オペレーションが変更されるというスピード感でやっている。このスピードと手応えが、僕に「この仮説は間違っていない」と確信させている。
終わりに
謝辞
さて。この長い記事もやっと、終わろうとしている。
終わる前にまずは感謝を述べたい。
最初に、両親へ。本当にありがとう。ここまで生きてこられたのは文字通りあなたたちのおかげです。
次に、ときどきで僕に接してくださった方々。学校の同級生、会社の同僚、あるいはより親しくしてくださった方々など。
中には、僕の人生を変えるきっかけを作ってくださった方もいます。海よりも深く感謝をしています。本当にありがとうございます。
それから、僕の上司だった方々。おそらくは僕という人間を扱うのは難しかったことでしょう。申し訳ないことにまだ扱いづらい人材のままだと思いますが、以前よりは社会のルールを理解して行動しようと心を改めています。
そして、この記事を読んでくださったあなたへ。僕の人生を知ることで、なにかひとつでもプラスになることがもしあったのであれば幸いです。
最後に、妻へ。これからもよろしく。
愛する覚悟
この記事の締めくくりにはたぶん似合わないが、どうしても書きたいことがある。
『出世 7つの法則』という本がある。
この本は、出世には能力など関係ないと喝破する。出世をするには、努力し勤勉であれば報われるのだという幻想を捨て、自分の殻を破り、相手を貶め勝ち上がれ。頂点を目指せと主張する本だ。
しかし本書の最後の謝辞で彼はこう書く。以下に引用するのは、亡くなった奥さんとの出会いから亡くなるまでのエピソードを書いたあとの最後の段落だ。
これを書きながらも、私がどんなに悲しみ、絶望しているかは筆舌に尽くしがたい。キャスリーン・フランセス・ファウラーは私の家族で親友、最愛の人、妻だった。私の世界は彼女を中心に回っていた。(中略)キャスリーンはつねづね、私たちは前世でも来世でも一緒ね、と言っていた。そうであってほしい。なぜならば最後のダンスをまだ踊っていないからだ。彼女を永遠に愛し続ける。
結婚をする直前にこの文書を読んだ僕は、本書の内容との落差とこの純然たる愛に感動した。
そして本書を読み、結婚してからもしばらく経って、改めてこの言葉が沁みる。「彼女を永遠に愛し続ける」覚悟が自分に本当にあるだろうかと自問したこともある。
でも、迷いはあっても答えはひとつしかない。
僕は僕なりに彼女を愛し続ける。
それは優しい言葉をかけるということではない。それは協力してひとつのことをなすということでもない。
目の前にあるのがどんな道でも、共に歩むということだ。
きっと乗り越えられる
いま僕が歩いている道は、勉強して教えてもらった道ではない。自分で考えて選んだ道だ。
そしてややこしいことに、すべて1人だけで歩く道でもない。仕事でもチームや上司や経営者、ステークホルダーがいる。プライベートでも妻がいる。いつかは家族も増えるかもしれない。子どもじゃなくてもペットが増えたり。
きっとまた、僕がいま暫定的に選んでいるこの道も立ち行かなくなってしまうのだろう。いつもそうだった。完全な安定などない。
そのときはまたきっと、自己破壊をするんだろう。調べ考え、悩みぬいて、そのとき持っている情報から価値観を転換していく。
辛いことも苦しいこともきっと乗り越えられる、そう信じて。
僕の長い独白はこれで終わり。来週からもぜひ、このニュースレターをよろしくお願いします。
リファレンス
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- 道なき未知
- すべてがFになる
- 拒絶の代償 - 帰るべき場所を失くして
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- 可換体論〔新版〕
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- 大学生活をなんとなく振り返ってみる 〜B2編〜 - Diary over Finite Fields
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30歳まで
- プログラミングを始めて10年くらい経った
- 数学を勉強できなくなったので休学をすることに決めた - Diary over Finite Fields
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- 生きる理由を、言葉にした
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- チェンジ・ザ・ルール!
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この記事はSubstackで連載したものをブログ記事に統合したものです。
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*1:Tidy First?とかを読むとわかるように、オプションも大事である。しかし紙幅の都合でその言及を避けた。現代のソフトウェア開発者は、ソフトウェアの価値は使われ方であると知りながら、同時にその使われ方を実現するためのオプションを維持することを求められていると僕は思っている。
