Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

あたしが古くなっていく

椎名林檎がギブスという曲でこんな歌詞を書いている。

あなたはすぐに写真を撮りたがる
あたしは何時も其れを厭がるの
だって写真になっちゃえば あたしが古くなるじゃない

何を言っているんだろうなと昔は思っていたけど、最近たまに自分が古くなる瞬間を感じることがある。

例えばこのブログがそうだ。もう何年かわからないけれど書いていると、さすがに初期の記事とか明白に「古い自分」である。

特にポッドキャストをやっているともっと強く感じる。3 日前に話したことが、今はもうどうでもいいなと思っていたりする。古い自分が活き活きとして記録されているが、なんか古い話してんなといまの自分が思う。

常に古い自分だけがアーカイブされていて、最新の自分はどこにも公開されていないし、公開した瞬間古くなっていく。

今まではつくったものはなるべく即時で公開するようにしていた。しかし最近は、書いてから数日後に記事を公開するように変えた。ポッドキャストも土曜日以外は更新しない運用に変えた。だから公開されたタイミングとつくったタイミングにズレがある。公開日に見直してみると「なんかすごい昔に考えたことをいま公開してんな」という気持ちになる。

新しい記事として公表される古い自分。新しいエピソードとして公開される古い自分。本人としてはあまりいい気分はしない。


すごく古くなってしまえばもう別人だしと割り切れるのだけど、この 1 ヶ月とか 2 ヶ月くらいの古さが自分にとっては耐えられないなという気がする。

他人の古さでも気になる。めちゃくちゃ寒い日に残暑くらいに収録されたポッドキャストとか聞くと気持ち悪い。寒くてマフラーをつけている僕に「いやーまだまだ暑いね」とか言われたりするとなんか気分が下がる。誰も悪くないとはわかっているんだけど。

かといって古くならないように作るのは難しい。というか無理。世の中の変化ははやくなっても遅くなることはないだろう。自分も変わるし、世の中も変わるし、世界も変わる。諸行無常。

であるならば、むしろ逆に数日とか数ヶ月程度のアーカイブの古さなんて誤差だと割り切ってしまうのも手じゃないか。古い自分を古いまま受け入れていったほうがいいんじゃないか。

龍が如くという 2005 年に発売されたゲームがある。シリーズを通してその時代の最新を反映しようという考えのゲームだが、初代の龍が如くはもはや古い。ゲームも変わるし、世の中も変わる。今の時代「女子高生だって携帯電話を持つんだぜ」というセリフはもはや意味をなさない、というか 2005 年に生きていた人じゃないとそのセリフの意味をエミュレートできないだろう。

未来がどうなるのかは誰にもわからないのであれば、イマを徹底し、イマの最新をちゃんと作る方が、数日後数ヶ月後は気持ち悪くても、1 年後 5 年後 10 年後にむしろ意味のある行いになるのではないか。

そんなことを考えている。