Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

自分のグロテスクさと向き合いたくない

人間とは多面的だなと思う。自分だけを見ていてもそう思う。

もちろん、綺麗な部分だけでない。しかし、わざわざ見せないので人は「こういうキャラ」になっている。このブログも綺麗なことばかり書いている。敢えてそう演出している自覚がある。

なるべく自分の "きたない" ところは出さないよう、意識的にも無意識にも気をつけている。

なんの肩書きもない、なんの縛りもない、何も失うものもないはずの人間なのに、自分のよくないなと思うところの話をするのは難しい。弱みを見せられないとはまた違う話だ。

明日死んでも構わないと思いながら、過去にやった悪いことの話を誰かれ構わずすることもない。隠し事なんて山ほどある。明日死ぬなら、わざわざ隠す必要もないはずなのに。

このブログでは、誰にも頼まれていないのにこのブログ上でキャラを演じているし、Twitter でも Instagram でも Facebook でも職場でも、両親の前でも同じように演じている。すべては演技である。

別に "本当の自分" なんてどこにも存在しないし、全部 "本当の自分" であると言うこともできる。場によって、相手によって、関係性によって人は変わるし、自分を変えるのだ。それはとても自然なことである。


自分の欲求に対して、自分のものであるにも関わらず「マジで?」と理性が思うことがまれによくある。

あまりの "汚さ" というか "社会に受け入れられなさ" というか、自分自身に悩み、右往左往していた時期もある。とはいえなんやかんやで最近は受容している。

人間は自分をコントロールすることなんてできないという当たり前の事実に気づく。であるならば、それが良いとか悪いとかではなく、受け容れるしかない*1

人間は自分をコントロールできないし、人間が作ったシステムにさえ、人間は左右される。例えば資本主義というやつは人間が作ったシステムだけど、誰も不況なんて望んでないのに不況は起きたりする。

人間も結局自然の中の一部でしかなくて、自分の心と身体とかいう自然的なものに支配されている。理性を正しいとする価値観はそこまで絶対視されるようなものでもないなと思う。

ほら、また綺麗な話に押し戻した。


自分自身に向き合うことは結構辛いことなのではと思う。僕もあまり向き合いきれていない。

仕事に向き合っていれば仕事中の自分という綺麗なドレスで着飾った自分で居られる*2。その方が気楽だし考えることが少ない。このブログを書いていれば、自分と社会とか、ソフトウェア開発と社会とか、何か大きなことに対していいこと言ったような気持ちになり自己満足が得られる。そのほうがずっと気持ちがいい。

それに比べ、自分というもののよくわからなさに向き合うのは辛い。カフェで読書や新聞を読んでいるときの知性溢れる自分から、反射的な破壊衝動、自虐指向に満ちた状態へいともたやすく "落下" していく感覚。権力に対する反抗心を持つ自分と、誰かやなにかを支配しようとする試みをする自分の同居。安心感で武装するために猜疑心で満たす戦略。全てがダブルスタンダードで、論理的におかしい。だけど僕の感覚としては全てが正しい。

この訳のわからなさを、まだ完全には受け容れられていない。永遠にそんなときは来ないかもしれない。

でもどんな自分も許さないと、結局誰も許せないまま死んでいくことになるのかなと思ったりしている。

*1:なんかマインドフルネスの講師みたいなこと言っているな。

*2:休日出勤が快楽になるのはそのせいではないか。