Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

今日思ったこと

たまには思想の話をしようか、なんて思って書き始めてみる。

そもそも文章を書くとき(つまり今のことだ)、僕は自分の思想がなるべく表面化しないように気を付けている。フラットになるように心がけて文章を書いている。プライバシーにかかわることだし、要は知られたくないから気を付けている。

例えば男女の話、例えば人種の話、例えば自由の話をすれば思想というのは結構簡単に顔を出してしまう。ブログで技術の話しかしてない人が Twitter で政治の話しかしてない、なんてのはまぁまぁよく見る。ま、ソフトウェア開発の話をしていても案外思想の話って気づいてないだけでいつの間にかしていることはあるけれど。

さて、このところ暇なのでニュースをたまに読んでいるのだけれど、この頃のニュースは良くも悪くも politically correct だと感じることが多い。

ただ、これは僕が見ているメディアというバイアスがかかっているので実際のところわからない。CNN は見るけど FOX は見ない人とか、朝日新聞は読むけど産経新聞は読まない人ってそれだけで少しはどういう人かわかるのと同じようなものだ。僕の思想は僕が触れている情報、シェアしている情報からある程度は類推できてしまうものなのかもしれない。

それは結構恐ろしいことだ。自分が「知られたくない」と思っていることが、実は自分が「知られてもいい」と思って実際に公開している情報を通じて間接的に他社に知らせてしまっている状況を自ら作っているかもしれない。なんてことを考えながら生きていて、ブログ記事を書く時も不用意にプライバシーにかかわることを書かないように気を付けている。

小学校時代から

で、そもそもなんで自分の思想を自分が知られたくないと感じるのかなんだけど、これは実は子供のころの経験があるからなんじゃないかという気がしている。

小学生の頃から、なんとなくずっと疎外感があった。「自分はここにいるべきではない」という感覚がずっと昔からあった。ここ、というのは 2 つ。ひとつは家族、ひとつは愛知県の郊外という場所だ。

ひとつめの家族。今は(今も?)別に仲が良いけれど、それはそれとして家族という仕組みが嫌いだ。確かに自分を産んだのは母親だし、父親の収入に頼って 20 年余りを生きてきた。それは感謝はしているが、究極的には赤の他人だと思っている。もちろん、恩はあるし返したいけれどそれは親という特別な存在に対してではなく、自分の世話をしてくれたほぼ唯一の他者である、ということに対しての感謝だ。

そもそも家族とは理不尽なものだと思う。子は親を選べないという話もあるけれど、別に親だって子を選べないし、日本社会だと事実上生まれてから短くても 20 年近くの責任を肩代わりしないといけない。理不尽でしかないと思うのだけれど、なぜみんな当たり前のようにそんなことを受け入れているのだろうか。

と、珍しく思想を表明したりしてみる。

ふたつめ、地元。自分の地元はものすごく閉鎖的で、保守的で、画一的だ。その土地に根付いている家の多くは自動車産業で働いている家庭か、祖父母と一緒にそこに住んでいるか。自分の家はどちらでもない。

別にそれでいじめられたなんてことないし、多いとはいえ 95 % の家庭がそうとかそんな割合というわけでもない。だけどふとした拍子に、ことあるごとに、自分は余所者なんだなと感じることがたびたびあった。

友達の家を訪ねるとじいちゃんやばあちゃんと住んでいるとか、帰省したときにお年玉をいっぱいもらって帰ってくるとかそんなことだ。そもそもうちの両親の実家へ帰省をするのに高速道路に乗らないといけないんだけど、それを言うだけで驚かれた。じいちゃんもばあちゃんも市内に住んでる、隣の市に住んでる、みたいな家のほうがずっと多かった、ような気がする。気のせいかもしれない。

そんな些細なことだけど、なんだか自分の家庭は「ここの普通ではないんだな」と分からされるには十分すぎた。

自分の両親はどちらもそこ出身ではないし、自動車産業と一切かかわってないわけでもないけど、そこで直接働いているわけでもない。苗字が同じ人に地元では全く会わなかった。今の自分が知っている言葉でいうと、自分はマイノリティなんだと思っていた。きっとそれは間違っていない。

ああ、そうか、いま気づいたけど、だから大企業で働きたいなんて自分は思うのかもしれない。自分の父親はそうじゃなかったから。ま、きっと働けないけど。

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そんなこんなで、両親が余所者だし、自分の帰る場所はそこしかなかったはずなんだけど、結局自分もそこに居着くことはできなくて余所者になってしまった。市外の高校へ行ったんだけどそこでも余所者だったし、県外どころか名古屋の大学に行った時点でやっぱり余所者だった。

この場に留まり続けるなんてできないだろうとずっとずっと昔からなんとなく思っていた。実際その通りになっていま東京に住んでいる。なんの因果かよくわかんないけど、自分にとって地元は全く帰る場所ではない。むしろなんだか居心地が悪くて、特に会いたい人ももう居ない場所だ。

今でもたまに妄想するけど、あの土地に馴染んで生きていけることができたら、それはそれで幸せだっただろうなと思う。きっとこんなブログなんて書く必要のない人生だっただろう。そうなりたかったなぁ。そうなれなかったから、狭い 1 K の一室で誰かに対して自分の思想を表明しようなんて急に思ってキーボード叩いたりしているわけだ。

さて、話がだいぶ逸れた。何の話だったかというと、自分の思想を安易に表明はしないほうがよさそうだ思っているという話で、そう思うようになった経験は実はこうしたずっと昔からの経験の蓄積のせいなんじゃないかと思うって話だ。

自分が思っていることを素直に言ったらよく怒られた。苗字や名前なんてどうでもいいだろ、とかね。これはいま知っている言葉でいうと家族制度への反発だったんだけど、きっと子供っぽくなかったからダメだったんだろう。子供というのは子供っぽい思想を表明しないとだめらしいって大人になってから知った。僕としては子供のときに信じていたことを今もずっと思っているわけで僕は十分に今も子供っぽいと思うのだけれど。

そして自分はどこまで行ってもマイノリティなんだから自分の思っていることを伝えようとしたって無駄だろう、という諦めが最初からある。だからこんなブログを狂気だけで 6 年くらい?やっている。文章を書くのに必要なのは技量でも根気でも習慣づけでもなく狂気ですよ、とは常々思っているのだけど、あんまり言ったことはないかも。

ちなみにソフトウェアエンジニアの世界では男性なんて掃いて捨てられるじゃないかと錯覚するくらいマジョリティだけど、ソフトウェア開発をしている人自体がマイノリティだし、自分がマジョリティになったという感覚は全くない。

家族制度

そういや家族制度で思い出したんだけど。 master / slave という単語をテック業界からなくそうという動きが幾年か前からちらほらみられて、たびたび話題になっている。それ自体の是非は何とも言えないところで、なぜかと言うと僕は英単語の機微がわからないから。それは前の記事でも書いた通り。

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だから基本的に静観を決めているんだけど、master / slave の代わりに parent / child を使う、みたいな動きがあってそっちは嫌だなと感じている。master /slave にせよ parent / child にせよ、主従関係を連想する単語をテクニカルタームとして採用しているわけで、親子関係というのは現存する絶対的主従関係で比較的社会に受け入れられているものだ、という思想のもとでで選ばれた単語なんだな、という気がして気分が良くない。

西洋人の言葉選びに付き合わされているわけなのでしょうがないけど、家族の絶対さは東洋のほうが厳しいんじゃないか(たぶん)と思うし、parent / child という言葉選びは master / slave よりもずっと強い隷属の印象を僕は受ける。言ってもしょうがないんだけどお気持ち表明してみた。

肌の色

これもまた関係ないんだけど、今日たまたま Slack の絵文字リアクションで肌の色が複数選べるということが話題になって、例えば「肌色」という日本語は politically incorrect だよねということを思った。

正直、絵文字の肌の色を選べる機能は日本に住んでいるとなにをしたいのだかまるでピンとこないわけだけど、きっと彼らにとっては死活問題なんだろうと思う。実感は伴わない想像をすることくらいしかできないけど。

別に否定したいわけじゃないんだけど、ソフトウェア業界は現状は西洋人のさらにごく一部の人々のカルチャーを、全然関係ない東洋人にまで押し付けちゃえるような狭くて偏っている世界なんだなとこういう拍子に思うわけ。

別にいいけど。

終わりに

さて、こうやって思っていることを率直に書くのは実は久しぶりだ。別に大人になったからそう思わなくなったわけではなくて、思っていることを率直に書かないほうがいい、という処世術を身に付けただけだ。

じゃあなんでここにいま書いているのかというと、よくよく考えると自分が思っていることなんて誰も興味ないな、と改めて思い直したからだ。なんで誰も興味がないのに、誰に遠慮しているんだろうな俺、見えない敵と闘っているなと思って。

そういやまた関係ないけど、最近「させていただきます」って日本語を聞くことがすごい多い。そもそも日本語として変だと思うし気持ちが悪い。誰に対して何をへりくだっているのか全くわからないし、「司会を務めます」とか「説明いたします」とかでいいじゃん。謙譲語「いたす」っていう便利な言葉がもうあるんだからさ。謙譲語って知ってる?中学校 2 年生くらいで習わなかったっけ?

ま、なんとなく空気読んで遠慮している人が多いからそんな意味わからない言葉遣いが流行ってるんだと思うけど、たまには遠慮しないで雑に言いたいことを思いついた順に脈絡なく言うのもいいかなと思って、で雑に 1 万文字くらい書いたらどうせ誰も読まないだろうからそれで煙に巻けるんじゃないかと思ってだらだら思いつくままに書いてたんだけど、全然 1 万文字もいかない。これ時点で URL の文字列とか入れても 5,000 字もいってない。まじかよ。

面倒になったからそろそろ終わろうと思う。本当は例えばフェミニズムって男性のためのものでもあると思うという話とか、すぐに「日本人」とひとくくりにしたがるのなんなんだよ、とか旭日旗掲げて爆音でプロパガンダ流しながら首都高走ってる車を見かけるたびに表現の自由を感じる話とか、最近思ったこと(あるいはずっと思っていること)はいろいろあるんだけど、全部言っていたらキリがないし。

なんにせよ家の中にいるだけなのに人の思想に触れる機会がそこまで減っていなくて。インターネットばかり見ているせいかもな?だから自分もそこに一石、というよりちり紙でも投げつけてやるかってのがこの記事。

いつものことだけど、こんだけ色々書いておいて特に伝えたいことはない。ただ今日思ったことを、ただ今日思ったこととして書いた。なんかわけわかんないことに時間使っちまったなー。

おしまい。