Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

英語できるようになりたくない

漠然と英語できるっていいなぁと思っていたし、現在進行形で思っている。ここで「英語できる」の定義はどうでもよくて、みなさんが思い浮かべる英語ができる人を思い浮かべればいい。アメリカで生まれ育った人くらい英語を使えるという意味かもしれないし、大学入試で英語が足を引っ張らないという意味でも同じことだ。

このところ英語の記事を読むことが多い。以前は技術記事や Stackoverflow くらいしか英語に触れることはなかったのだが、ニュースレターを購読したり、RSS フィードを購読したりしていると英語に触れる機会がなぜか勝手に増える。Hacker Newsを読むとかね(読んでないけど)。

で、ふとした拍子に人のヘイトをみることがある。ニュース記事という形できれいにデフォルメされているものもあるし、ニュースに対しての誰かしらのコメントという形だったりする。日本語のヘイトが集まる場所は知っているので近づかないようにすればいいし、実際に近づいていない。だけど英語のヘイトが集まる場所は知らないし、そもそも英語で書かれているサイトがありすぎて何がなんだかよくわからない。いつしか迷い込んでしまっていることがある。

ただ迷い込んでしまったとしても、自分の語学力や経験値が低いせいで「ヘイトである」ということはわかっても意味がダイレクトにはわからないし、傷つかない。「あぁ、この人は怒っているんだな」と他人事の感想を持って終わる。日本語だと頭じゃなく心にズシーンとくるものがあって(語彙力)、なんか嫌なもんみちゃったなぁと思うんだけど英語だとそうならない。

これが語学力があがるとか、経験値が上がればそのヘイトを心で感じるようになるのかもしれない(あるいはどれほど努力しても一生感じられないかもしれない)が、もしそうなら英語できないほうがいいな、と少し思う。もちろん英語ができる(未定義語)人じゃないと得られない情報とか、同じ情報を得るにも早さが違うとか、色々な要素があるし悪いことばかりではない。人は良いファクターの影響を underestimate して悪いファクターの影響を overestimate する傾向にあるらしいし、僕のこの思いも人の傾向を反映した思いな気がする。

でも英語ができないよりはできたほうがいいとか、一概にそうでもないんじゃないかなと思う。少なくとも、良いことばかりではないんだなと何年も英語に触れてきてやっとわかってきた。どんなことにも良し悪しあるというのは語学力でもそうなんだなと思った。数学を学んでも、プログラミングができても、いいことばかりじゃないしな。やなことばかりでもないけど。

ものごとの理解、事象への解像度をあげればあげるほどいろんなことが見えてきて嫌になってやめる、ってのをこの 5 年くらい繰り返している気がする。