Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

多様性という理想と現実の自分

まえおき

ブログで話題にするのを避けるべきことに、炎上しやすいテーマというのがあると思っている。そして自分の視野の範囲で炎上しやすい話題といえば、性差であったり、マイノリティへの発言だったりする。

今日はそんな話を書こうと思った。既に気が重い。書きたくない。

立場をはっきりさせるために、わたしはこうした話題の際には自分の年齢と性別、及び自分が念頭に置いている範囲を書く。わたしはこの記事を書いている時点で26歳男性であり、ITエンジニア、ソフトウェアエンジニアと呼ばれそうな人たちが集まる場を想定してこの記事を書いている。

コミュニティの多様性

勉強会、カンファレンスなどにおいて常々話題にあがるのが、そうした場に女性が少ないことだ。わたしはITエンジニアの総人口を知らないし、男女の比率がどれほどのものなのか知らない。ただ勉強会に行ってみると女性が0人なんてこともあるし、100人とか200人とか参加者が居ても女性が10人も居ない、という現場はよく見ている。

多様性が重要である、と(根拠はなんであれ)信じられ始めている昨今の世界において、どんな場であれ偏りがあるのは喜ばしいことではない。地理的な理由などで外国人の方が少ないのは仕方ない部分はある。しかし蓋を開けてみれば、地理的な障害は少ないはずの日本人に限ってみても勉強会参加者のほとんどが日本人男性であるというのが常だ。明らかに性別の偏りはあるし、その偏りを産んでいる何かがある。

先に断っておくと、わたしにはこの理由はわからない。そしてわからない理由はたぶんわたしが「ITエンジニアの勉強会参加者」というカテゴリにおいてマイノリティに属していないからだ。

人は残念ながら、集団において少数派を無視したり、弾圧したりしがちだ。歴史もそう物語っているし、何も教えていないのに小学生だって集団をつくれば同じように振る舞う。「多様性(ダイバーシティ)が重要である」という価値観はとても自然発生するものではなく、理性的な判断から生まれたものだ。だからこの課題を打破するために施策を講じなければならないし、時間をかけて価値観の変化を促し続けなければならない。

しかしこのテーマにおいてはわたしはマジョリティだ。どんな勉強会に参加することも特に抵抗はない。だから、参加するのを躊躇う気持ちというものが何もわからない。この問題に対してわたしが有効な施策をうつことはできない。何が問題なのか、どれほど頭を捻ったところで気づきようがないからだ。

炎上リスク

マジョリティがマイノリティに対して心無い言葉を投げかけるのが激しく非難される風潮もある。わたしも柄にもなく怒りを覚え、非難をする側に回ってしまったこともある。

誰かを不快にさせるような言動はマイノリティを排斥することにつながるし、コミュニティの多様性を損なう。互いの背景に思いを巡らせ、尊重し共生していくことが美徳とされる。

近頃は行動規範(Code of Conduct)が多くのコミュニティに制定されているのも、そうした流れの一環だろう。誰かを不快にさせる発言・行為・発表は悪だという認識が徐々に広まりつつあるとわたしは感じている。わたしはこの流れを歓迎しているし、コミュニティの一員として行動規範を遵守しているつもりだ。

ところが、コミュニティにて参加者の一員として振る舞うとき、わたしは炎上、非難をとても怖がっている。マイノリティに対して言及したり、何か行動したりすることを過剰に避けている自覚がある。

対マジョリティに対してコミュニケーションを試みるときには、あまり躊躇いはない。しかし、相手がマイノリティだととても怖く感じる。自分が十分に倫理的である保証なんてどこにもないし、自分の言動が誰かを不快にさせない保証なんてどこにもないではないかと考えてしまう。

仮にわたしが問題のある言動をしたとして、そうした言動が正規のルートで運営に報告されれば、それなりの注意や処分を受けることはあっても、社会的に死ぬことはさすがに免れるだろう。しかし、ネット上で写真や動画でも撮られて第三者に晒されれば、どうなるのだろう。

わたしは炎上したことがない。だから炎上したあとの未来というのをうまく思い描くことはできない。多分仕事は続けられるんだろうけど、もしかしたら会社の女性陣から白い目で見られ続けるのかもしれないし、勉強会に参加するたびに「あの人〜〜の会で問題を起こした人だよ」と陰口を叩かれ続ける未来が待っているのかもしれない。あるいは意外と普通に生きられるのかもしれない。

リスク回避

別に注意や処分、批判や非難をやめてほしいと思っているわけではない。実際に問題を起こす人は残念ながら居るし、そうした人を野放しにすることがコミュニティにとって良いことだとは思わない。しかし見方を変えると、マジョリティがマイノリティに接したり、言及した時点でその人はある種のリスクを抱えることになる。

わたしはマジョリティとしてマイノリティに接するという行為に対して、非常に大きなリスクを感じている。そしてこのリスクという感覚は、回り回ってコミュニティの多様性を阻害することにつながってしまうのではないかと思う。たとえマイノリティがその場に居ることを受け入れたとしても、マジョリティと同じように議論や発表、提案や意思の表明、雑談に参加などを自由にできなければ、それは本当の意味でマイノリティを受け入れたことにはならないからだ。

マジョリティの皆がマイノリティを避けているとは思っていない。しかしマイノリティを避けていることと、マイノリティとのコミュニケーションを避ける気はないがたまたまマジョリティ同士でのコミュニケーションしかしなかった人との区別は、第三者にはできない。だからそうしたことをリスクとして認識している人がどれほど居るのか可視化されることはない(わたしだけかもしれない)。

わたしは、正直なところ、マジョリティ同士でコミュニケーションをしているほうがリスクが少なくて楽だと感じている。炎上や非難のリスクが小さくなるし、第三者からは多様性を妨げる行いをしていると思われないからだ。しかし同時にわたしは、この行いが誤っていると思っている。

建設的なフィードバック

人間は易きに流れるものだ。わたしが特定のコミュニティでマジョリティに属している場合、結局マジョリティとしかコミュニケーションしないだろうなと思う。やはり、そもそも参加者の多様性を担保できるよう、マジョリティとマイノリティの区別がその場で生じないよう、参加しやすい会やコミュニティを形成していくしか方策はないんじゃないかと思う。

勉強会を主催したことさえないが、自分のことを棚に上げて偉そうなことを言う無礼を見逃してほしい。

note.mu

たとえば、上記の記事はいくつかわたしにはない視点がある。そもそも立地なんて気にしたことがなかったし、立ちっぱなしはキツイと感じたことはわたしにはない。それはわたしがケガも病気もほとんどしない健康体だからだ。

良い会にするために必要なのは、独身男性の五体満足の若者でマジョリティのわたしの意見ではない。勉強会の参加者として増やしたいのは、マジョリティが気づけない障害で参加をためらっている・参加できない状態に追い込まれてしまっている人たちだからだ。

そのような人たちを会に呼び込めるのは、当たり前のように会に参加できるわたしの意見ではない。基本的には勉強会などに参加はできないが、配慮されている場であれば行ける、という方々のフィードバックが重要なのだと思う。

ローマは一日にして成らず

しかし、こうした人たちに対して気を配ることができたとしても、参加者を増やすことはそれでも難しいだろう。つまらない結論になるが、わたしがなんとかできるわけでも、勉強会やコミュニティの運営がなんとかできるわけでもなく、時間をかけて努力し続けるしかないのだろう。

わたしはあなたではない。あなたのことは完全にはわからない。しかし、たとえわからなくてもあなたが大切にしていることを尊重しようとは思っている。そうした態度で臨み、行動をし続けるしか結局道はないように思う。

終わりに

書きたくないことを書いた。いまわたしにできていることが行動規範を(半ばハックして)守っているだけだという自分が情けないと思ってこれを書いた。わたしはマジョリティだとかマイノリティだとか関係なく、参加したい人が自由にコミュニティに参加できることを望んでいる。

わたしは頑張って理性的な判断をして、多様性が善であると言い聞かせている。わたしはマイノリティを排斥する方向に動きがちな自分の思考を自覚し続けている。しかし、行動を伴わせることが全くできていない。

さて、どうすればいいのやら。

まとめようとしてもまとめられないから、最後にジェンダーフリーなラブソングでも置いておこうと思う。

www.youtube.com