Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

正解を探す人々

森博嗣の『悲観する力』を雑に読んでいた。

悲観する力 (幻冬舎新書)

悲観する力 (幻冬舎新書)

この手の本はあまり読まない。たとえば "楽観する力" なんて本があれば僕は著者が誰であっても買わないだろう。実際ありそうだけど。

読まない理由は簡単で、読まなくても大体何が書いてあるかわかるからだ。そしてそれは多くの場合自分の経験を過度に一般化して過剰なまでに推奨し、「やらないとお前が損をする」、「お前ができないのはやらないからだ」などと主張している印象がある。読んだことないので実際のところを知らないが、他人にわざわざ自分の主張を押し付けるような本を書く人はきっとそんなことをしているんだろうという推測のもとで書いている。あくまでも推測だ。でもきっと本屋を探せば普通にそういう本はあると思う。

とはいえ、わたしが手に取りお金を払って買う本も、実際のところ手を変え品を変え、だいたい同じことを言っている。すなわち「論理的に考えろ」、そして「自分の頭で考えろ」とのことだ1。それが人間であることの証であるようなものだから、そういう主張に最終的になってしまうのは致し方ないことだろう。結局、自分のことは自分で考えるしかないのだ。

ルール作り

少し前にルールを作る仕事をしたいと思っていたが、諸般の事情により今は停止している。わたし自身、ルールに盲目的に従うのは好きじゃない。アニメPSYCHO-PASSが好きだけど2、それは強力なシステムにより管理された社会でシステムに対抗する物語だからだ。

どうせ生きるのなら、ルールを作る側に回りたいものだ。それは自分が利益を得られるとかそういうものもあることは否定しない。それが人間というものだし、それが自己主張というものだからだ。ただ、わたしがルールを作る側に回りたい一番の理由は自分が変化し続けることに適応し続けるためだ。ルールなんてものはいつか陳腐化する。作られる前提があり、作られた時代があり、価値観が変わりツールが変わり人も変わる。ルールに従わされるだけの人間で居続けることは、そうした変化に対応することを拒む道へと突き進むように思われる。わたしはそうはなりたくない。

全てとは言わない。ただ自分の仕事のルールが、自分のいないところで決められていたらいい気持ちはしない。そういうものだ。

正解探し

ただ普通はどうもルールを作りたいとは思わないのか、よくわからないけれど、ルールを作るという意識はないらしい。少なくとも、ルール作りに積極的な人のほうが少数派なように感じる。

これは想像だけれど、その中の一部の人にはルールとは与えられるものであるとか、何かしら正解があってその正解を選んでいけばいい、というような思想があるように見受けられることがある。実際、自分の書きたいコードを書く時にどこかから自分の意図通りに動く(正解している)コードを持ってくる人がいる。ちなみにそれも正しいけどこうするともっといいよ、と言って「いや〇〇ってページに書いてあったから」とか言われたこともあるし、本を読んで「こういう風にする方針でやるといいと書いてあった」と言ったら、「その方針をどうやって実現するのか」と聞かれたことがある。それはわたしたちが考えることだろう。

正しいルールなんてない、というのがそもそも歴然たる事実としてある。絶対王政も共産主義も民主主義も決して正しくなんかない。平等とは何か、人が血を流さずにあらゆる意見を反映した決めごとをするためにはどうすればいいか、それを突き詰めていった結果が現在のこの複雑なシステムだが、これも決して正しくなんてない。でなければ国会議員の仕事はもっと少なく済むだろう。それは国だけの話じゃない。会社であっても、サークルでも部活でも、どんなに小さい集団にでもルールはつきもので、誰かが作らない限り別の問題が発生する。

そもそもルールが正しくないのに、そのルールに従うことがいつまでも "正しい" とは限らない。自分が何をしているのかを省みずルールを盲信するのは誤りや罪へと至る道かもしれない。

こういうことをいうと、身もふたもないといわれるが、わたしはむしろ存在しないものをいつまでも探し続けることにむなしさを感じる。存在しないとわかっているものを探し続けるより、目の前にある問題に自分で解決方法を考え、必要に応じて情報を収集するほうがいいんじゃないのかなと思う次第。


  1. 追加で(正しい)歴史に学べ、という主張をされることもある。

  2. 最近とっつぁん主役の映画が公開されたよ!見てね!