Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

資料作りをした

普段から言葉で思考をしている。言葉というよりも音声といったほうが近い。自分が脳内で話していることをそのままブログ記事にしていることとかがある。というかいまそうしている。

なにかを発表しろと言われたときは聴衆の前で話している自分を想像し、とにかく思いついたことをなんでも話させる。当然脳内でのシミュレーションなので意味のない脱線ばかりするのだけど、必要な話やいいと思った話は付箋に書き留めて、そういうのが数枚集まった段階で資料にする。

という作業を今日やっていた。脳内だといくらでも脱線していいが、本番で脱線してもまとまりがない話になって意味がないので脱線しないように資料にしたり要点をあらかじめ整理しておいたりするのだ。

あまり効率がいい方法だとは思っていないが、数少ない経験上はそれ以外の方法で資料を作った経験がない。他の人はどうやっているのだろう。


結局アイデアや自分の言葉をつづるのに不便なようでいて一番効率がよいのは紙とペンのように思えてならない。自分が少し書き始めた時に、文字を図としてとらえることや、紙と紙を重ねたり並べたりして関係性を捉えること。矢印などを使って命題とその論理の関係を述べることなど。PCではやってもあまり効果がない気がするが、紙とペンでやると意味があるような気がする。個人の感想である。

誰に言ってももう信じてもらえないが、わたしはPCを使うのがすごく苦手な男だった。高校生まで全くPCが使えなかった。ついでにいうと数学科に入ったが数学を真面目に勉強しだしたのは高校生になってからだ。だからいわゆるアナログというか、PCなどのデバイスの便利さも骨身に染みているつもりだ。

だから構成が大方終わったものを整理することや、保存複製、共有などにはPCデバイスおよびその中で動いているソフトウェアを使ったほうが楽であるということは理解している。一方でその前の段階、資料の構成、聴衆の顔や知りたいことを思い浮かべ、自分がその場で伝えたいことを伝えるために、どんなテーマを話すべきか、など、そうした本当に創造的な作業には、デジタルデバイスの補助はあまり役に立たない(とわたしは感じる)。その点では紙やペンで少し手を動かす、字を並べる、意味のないものになったとしてもとりあえず書き並べる、ということは創造の源泉やきっかけになることが多いように思う。


とはいっても格好いい資料は見栄えのいい資料ができるわけではない。そういうことに価値を感じられないのでわたしはやる気にならない。

しかも面倒くさいことに、わたしは人の作った資料を借りて話すことや、逆に自分の作った資料を人に話させることが大嫌いである。それをする人を非難しているわけではない。むしろ様々な事情でやらなくてはならないときはあるだろう。しかし、本来であれば自分の言葉に責任を持てるのは自分だけのはずで、自分の言葉を紡ぐ補助として資料を作っているはずだ。もしわたしではない誰かの言葉でわたしの想いを伝えるというのなら、それはそれ相応の時間をかけてメッセージを代理人へ伝える必要があると思う。そのコストはそんなに安いものだろうか?

下手な引用は却って理解を妨げるのと同じだ。


雑に資料を作りながら、そんなことを考えていた。

ミドリ 付箋 MD付せん紙 A7方眼罫 19031006

ミドリ 付箋 MD付せん紙 A7方眼罫 19031006