当たり前のことをタイトルにした。
コミュニケーションは難しいとか、コミュ力がどうのこうのという。そもそも前提として相手に正しく伝える気があるのかという文章もこの世には存在する*1。
コミュニケーションとは、互いに伝え合う、分かり合う気があって初めて成立するもので、様々な立場、異なる前提知識などを踏まえなるべく多くの人に伝える能力、それがコミュニケーション能力だろう。昔から広く使われている言葉としては、「相手の立場に立って考える」能力のことだ、と僕は思っているのだが、実際のところは知らない。
コミュニケーションというのは難しい。しかし「無駄に難しいコミュニケーション」で疲弊してはいないだろうか。必要のない難しさは誰も得をしない。
よくあるのが、受け取ったメールに主語がないとか、不明瞭な指示語のせいで意味が複数とれるとか、言葉で説明されるよりも図で書いたほうがわかりいいところで口ばかりで議論するなどといったケースだ*2。このような状況は「配慮不足」、あるいは「正確に伝えようとする努力が足りない」状態だ。しかしこの状態は「簡単なことを難しくしている」状態であって、メールについてはただ確認すればいいし、議論を円滑に進めるため紙とペンを使えば良いのだ。
だからコミュニケーション能力を鍛えるには、まず「なんか難しいな」と感じたら何が難しくせしめているのかを考えればいい。だいたい原因は簡単で、その原因を排除するための努力は簡単にできるはずだ。
一方で、本質的に難しいコミュニケーションもある。専門的な会話などがそれにあたる。どう考えても、「偏差の2乗和の平均の平方根が標準偏差です」と日本語で伝えるより、
と書いたほうがわかりやすいし好ましいと思う。しかしこれも人によるようだ。
難しいことは難しい。当たり前だ。しかし人間は賢いので、それをなるべく簡単に表現しようと努力し続けてきた。そうして生き残ってきた表現方法が今も使われている記法なのだ。数式、プログラミングのコード、新聞の記事の組み方だってそうだ。慣れるまでは読みにくいが、慣れたらそれが一番簡単だと感じるようになる。それ以外の方法で伝わりやすいものがあるのなら、もっと広く使われているに決まっているので、「オレオレ記法」の導入なんかを真剣にやるのであれば本人にも相応の実力が必要である*3。
このような専門的な内容、そして正確性を期す内容を話すときに、僕はなるべく正しく伝えようと努力する。それが僕なりの、「コミュ力」であり、大学生の間に培ってきた能力のひとつだからだ。
ところで、上の程度の数式でだめなんだから、
とか書いただけで卒倒する人がいるんだろう。きっと。普通の人は「一様収束でもしてるのかな」って思って終わりだろうけど。
余談だが、数式が書かれていれば厳密なんてのは大嘘である。数式が書いてあっても結局のところ内容が雑であれば数式が正しくてもその本がきちんと書かれている保証にはならない。当たり前なのだが、数式アレルギー社会ではこのような勘違いを起こしている人をよく見かける。