Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

通勤しながら思う

機械っぽい人

そのシーンはどちらかというと何でもないシーンなのだが、妙に印象に残っているシーンがある。東野圭吾の『容疑者Xの献身』で、ホームレスを見ながら草薙が「彼らは時計のように正確に生きている」と呟く。そしてそれに石神が「人間は時計から解放されるとかえってそうなる」と返すのだ。いま手元に本がないので正確なことはわからないが、だいたいこんなようなセリフがある。

人間は思っているよりもずっと規則正しい生活をしている。同じ時間に出勤しようとすると、同じ車が同じ場所で信号待ちをしていたり、同じ人とすれ違ったりする。

僕も規則正しく生活をしていたことがある。高校生の頃だ。いつも同じ電車に乗っていた。そしていつも同じ電車に乗る自分を不自然で窮屈なものだと感じていた。今では毎朝同じ時間に起きることさえできやしなくなった。

僕には時計のように正確には生きることは難しいようだ。

機械を使う人、機械に使われる人

ところで話が変わるが、僕の父親は機械を修理することを仕事にしている。その仕事を選んだ理由は、「機械に使われる人間にはなりたくなかったから」だそうだ。言っていることはかっこいいが、それが実現できているのかは本人にしかわからない。

そして僕もプログラマーというコンピューターを使う職についた。僕がプログラマーになったのは遊びが仕事になったというだけなので大した哲学はない。だが、これも何かの縁なのかもしれない、くらいのことは思う。僕も機械に使われたいとは思っていないからだ。

あまり意識しないうちに機械を使っていたつもりが、いつの間にか機械に使われているというのはよくあることだ。僕もコンピューターを使いこなすつもりがいつもいつも使われている。しかしそれでも踏ん張って、わからないことを減らし、なるべく理解していく。コンピューターをコントロールすることは勉強をし続けるようなことだ。

そしてよく思うのだが、この営みにはかなりエネルギーが必要だ。僕が仕事に使っているエネルギーのほとんどは、コンピューターに使われないために消費されている。相手をコントロールすることは、相手が機械であれ人間であれエネルギーを消費する作業だ。誰にでもできることではないのも合点がいく。

規則に従うこと、慣習に従うこと、それはとても利口なようでいて、実はエネルギーが高い方から低い方へ流れているだけにすぎない。自分の頭で考えなくていいことを選択するというのは、一見面倒な選択をしているようでいて、熱力学の第二法則*1に従ったいわば当たり前の行動なのだ。

一方で僕は持ち前の反骨心でエネルギーを頑張って使っているわけではなくて、僕は普通の人とはエネルギーの基準が違うのだろう。僕にとっては素直に慣習に従うことのほうがずっと必要なエネルギーが多いのだと思う。僕も熱力学の第二法則に従っていて、従い方が他人と異なるのだ。

自分に合った暮らし

僕は毎日規則正しく行動することができない。それは僕にとってとてもむずかしいことだ。きっと多くの人にとっては、毎日規則正しい生活を歩むほうがエネルギーを使わないのだと思う。そして僕は毎日規則正しくない生活のほうがエネルギーを使わないのだ。

どちらがいいということもない。その人にあった過ごし方、暮らし方がある。自分に合った暮らしをし、他者の生活に過剰に反発せず、お互いに認め合うことが大切なんだろう。

僕は機械のようには生きたくない。機械に使われていきたくもない。でもそれが心地よい人もいる。僕はそう思って、今日も出勤時間を5分だけずらしていつもと違う場所で同じ人とすれ違い、佐川急便のドライバーに遭遇したりしなかったりする。

*1:だっけ。あまり自信がない。