Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

やりたいことを仕事にする必要はない

おそらく本人も善意で言っているのだろうけど、「やりたいことを仕事にしよう」という言葉を聞いたことがある。それを聞いたのは昨年の 4 月頃にさして興味はなかったが就職活動関連の話を聞きにいったときだ。その際に、言われたのが次のような言葉であった。

働くことに対してマイナスのイメージを持っている学生がどうしても多いんだけど、働くことをマイナスにするのもプラスにするのも実は自分次第なんだよ。

どうせ生きていくために働かないといけないのだから、なるべく楽しく働けるようにするべきだし、そのために今自分から動いていくのが就活。やりたいことを仕事にするために今努力しよう。

なるほど、今読み返してみても甘い文句である。

謎の運に恵まれ、僕は結局まともに就活を一切せずに会社に就職することができた。そして、やりたくないとは思わないことを仕事にしている。いや、遊びが仕事になってしまった、と思っている。これはおそらく客観的に見れば比較的幸福なことだろう。関係者各位には中の人は本当に感謝しているが、それとこの記事に書くこととは別の話である。

「やりたいこと」と「仕事」が同一な人生は果たして豊かだろうか。確かに仕事には多くの時間を取られ、休日は週に2日しかないのを「人生が週に2日しかない」などと表現する人をも見かけることがある。それがやりたいことを仕事にできたら、かの言葉を借りれば「人生が週に7日」手に入る、ということになる。一見素晴らしそうだ。

しかし、残念ながら仕事というのはやりたいことができるようになっていない。これは厳然たる事実だ。仕事には締め切りが存在し、多くの場面で妥協を迫られる。作りたかったはずのものが自分の中では 7 割の完成度で他人の目に晒され、それが勝手な改変をされて自分の目でみると完成度が落ちていることさえある。そんなことの繰り返しだ。

少なくともやりたいことには妥協を許さない人間にとって、やりたいことを仕事にするというのは苦痛でしかないだろう。たとえばこの僕がそうだ。妥協をできなくなったから大学院をやめる決意をしたわけだし、はじめから僕はやりたいことを仕事にするのに向いていない性格なのだ。

では僕は仕事中妥協しているのかと問われれば、妥協しまくっている。それも、躊躇なく。隣の人に「このコードじゃわからない」と言われれば冗長に書きなおすし、目的を達成できるのであれば雑な手段であっても選ぶ。逆に、自分のやりたいことに対しては妥協を許さないし、目的を達成するための手段は何度も練り直す。

自分が自分であるための場所を仕事に選んでしまっては、僕のような人間は悲惨だと思う。

とはいえ、仕事がやりたくないわけでもない。この塩梅が難しいから普通人は悩むのだろう。僕は仕事好きでもないしやりたいとも思っていないけれど、やりたくないとは思っていない。だから毎日出勤できるし、給料に見合っていると感じるのだ。

本来人が努力をするべきなのは、やりたいことを仕事にするためではなくて、やりたくないことを仕事にしないためだと思う。どうせ生きていくために働かないといけないのだから、なるべくネガティブな感情を持たないように、給料に見合っていると感じる程度の仕事を探せるように。

我が強い人間だらけの会社なんて崩壊するだろうし、仕事場で我を出さない人間がひとりくらいいるほうがいいだろう。

注意

当たり前のことだから書かなかったけど、ケースバイケースだ。全員がすべての仕事に妥協するような会社には成長はない。いつ、どこで妥協をするのか、それが自分のタイミングでは選べないのが仕事だ、ということだ。