Diary over Finite Fields

515ひかるの日記と雑文

発言からバイアスを取り除き吟味するのが本当に面倒

会社員になってから一番イヤなことはこれである。

発言には様々なバイアスがかかっている。ポジション、人間関係、感情、性別、年齢、経験、思い込みなどなど。何かをインプットし、何かしらのバイアスがかかってその人から生じた発言を僕というフィルターを通し認識することによりさらにバイアスがかかる。

例えば、ある人が会議で

そんなことどうだっていいよ。

という発言は、その人自身は気にしなくてもうまくいった経験があるのかもしれないが、ご自身でない誰かが気にして対処しておいてくれたおかげで問題が表面化しなかっただけなのかもしれない。あるいは自身の経験はたまたまうまくいっただけで今回はうまくいかないかもしれない。

生存バイアスという言葉がある。自分はうまくいった、だから他人も同じようにやればできるというのが典型だ。おそらく無自覚でなく自覚的にバイアスをかけている人も居るだろう*1

何を言ってもバイアスがかかることは避けられない以上、バイアスをかけた発言をするなとは言わない。そんなことを考えていたら何も表現できなくなってしまう。

僕がこの文章で愚痴っていることは、「自分の発言のバイアスにあまりにも無自覚な人がいる」ということだ。

自覚的な人はまだ良い。言葉を選んでわからないようにするなど、気を使っていることが感じられる*2。しかし、無自覚な人間にはそれがない。本音をねじ曲がった言葉から汲み取って逆算し、折衷案を考えることが必要になる。他人なんて存在しなければいいのにと思う瞬間である。

「行間を読む」などという*3。思えば数学でも行間を読む(うめる)ことがあったが、今は行の間ではなく行の裏を読もうとし、失敗し、消耗している気がする。すべての発言、行しか読まないでいてやろうか。

*1:カリスマと呼ばれる立場は生存バイアスでものを語るのが仕事だ。

*2:あるいは相手のバイアスを利用し、自分へのバイアスを増長させるように会話を持っていく人もいる。それはそれで処世術だろう。

*3:たいていの日本人は行間を読もうとするくせに行を読んでいないので狂った読解をしがちである。